甲午改革 1894年甲午農民戦争を機に朝鮮へ出兵した清国と日本軍が日清戦争へ突入する中、日本の干渉によって成立した李氏朝鮮の金弘集政権の下で行われた、急進的な近代化改革。
甲午改革
7月27日に改革の中心機関として軍国機務処が設置され、次のような改革が進められた。
- 中国の年号の使用を止め、開国紀年に変更。
- 宮内府と議政府の分離。
- 六曹(吏曹、戸曹、礼曹、兵曹、刑曹、工曹)を八衙門(内務、外務、度支(財務)、軍務、法務、学務、工務、農商務)に再編。
- 科挙の廃。
- 封建的身分制の廃止。
- 奴婢の廃止。
- 人身売買禁止。
- 拷問廃止。
- 罪人連座法廃止。
- 早婚禁止。
- 寡婦の再婚を許諾。
- 財政改革。
- 租税の金納化。
- 通貨の銀本位制。
- 度量衡の統一。
12月には軍国機務処が廃止され、甲申政変に失敗して日本に亡命していた朴泳孝が内務大臣となり、引き続き次のような改革が進められた。
- 議政府を内閣とし、近代的な内閣制度を導入。
- 洪範14条の発布。
- 八道を二十三府制に変える地方制度改革。
- 税制制度改革。
- 近代的な警察・軍事制度の確立。
- 司法制度の近代化。
1895年5月に政権内部の対立で、金弘集内閣が崩壊する。朴泳孝は次の朴定陽内閣でも内務大臣となるが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まった。朴泳孝は8月に謀反の疑いをかけられ、また日本に亡命する。その後は親露派の内閣が生まれ、改革は停滞することとなった。
改革は10月8日に閔妃が殺害(乙未事変)された後、乙未改革に引き継がれる。