年表
- 1882年 壬午事変
- 興宣大院君が清へ幽閉されていたので、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策(小が大に事えること。)へと方向転換する。
- 1884 甲申政変年
- 朝鮮の近代化を目指す金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、国費を浪費する閔妃を討たない限り朝鮮の未来は無いと判断し、日本軍の協力のもと、クーデターを起こす。
計画案- 郵征局を放火
- 混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。
- クーデター発生を名目に日本に国王保護を依頼。
- 開化派が新世間を発足させ、近代的立憲君主制国家に転換させる。
- (清は清仏戦争中のため二正面戦争は行わないだろうと予想。)
開化派の行動
計画実行の直前に清は清仏戦争で敗退し、フランス領インドシナが誕生したため、朝鮮における覇権維持のため朝鮮方面に注力する流れになったが、開化派は計画を強行した。
閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言し、首相にあたる「領議政」に興宣大院君の親戚・李載元、副首相に朴泳孝、金玉均が大蔵大臣のポストに置く事を表明。
新内閣は国王の稟議を経て、その日の内に、旧弊一新の改革のため革新政策を発表する。- 国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
- 清国に対して朝貢の礼を廃止する事。
- 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
- 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。
- 等、14項目の革新政策。
閔妃一派を追放し、革命政府を樹立した。
閔妃の行動
閔妃は清国に国王と閔妃の救出を要請。
袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人と銃撃戦となる。
結果
開化派のクーデターは失敗に終わる。
日本公使館に逃げ込めなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に陵辱され虐殺された。
開化派による新政権はわずか3日で崩壊する。
金玉均らは日本へ亡命。
残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らは族誅(重罪を侵した者について、本人だけでなく一族についても処刑すること。九族皆殺しとも呼ばれる。)される。 - 金玉均は1894年、上海で暗殺される。
- 朴泳孝は1894年、朝鮮で甲午改革がはじまると帰国。内務大臣となり1895年謀反の疑いで再度日本へ亡命。1907年に再帰国し、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑処分となる。1910年の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した”朝鮮功労者名鑑”に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録される。