第1次バルカン戦争( A.D.1912〜A.D.1913)
バルカン同盟とオスマン帝国との戦争。イタリア=トルコ戦争のさなかであったオスマン帝国に対し、バルカン同盟が1912年10月に宣戦して始まった。敗れたオスマン帝国は、13年5月のロンドン条約でバルカン半島のほとんどを失った。
第1次バルカン戦争
バルカン同盟とオスマン帝国との戦争。イタリア=トルコ戦争のさなかであったオスマン帝国に対し、バルカン同盟が1912年10月に宣戦して始まった。敗れたオスマン帝国は、13年5月のロンドン条約でバルカン半島のほとんどを失った。
帝国主義とアジアの民族運動
世界分割と列強対立
バルカン半島の危機
オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶのを恐れ、バルカン半島への勢力拡大をねらっていた。ドイツにも世界政策の一環として中欧からバルカンへの支配を拡大し、ドイツ民族の連帯を主張するパン=ゲルマン主義が唱えられていた。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命がおきると、オーストリアはベルリン会議で行政管理権が認められていたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。両州の住民は大半が南スラヴ系であり、南スラヴの統合を唱えるセルビアが編入を望んでいた地域であった。オーストリアに反発したセルビアはロシアに助けを求め、戦争の危機が高まった。
1911年、列強の関心が 第2次モロッコ事件 にむけられているときに、イタリアはトリポリ在留民の保護を口実にイタリア=トルコ戦争をおこした。翌年、スイスのローザンヌで開かれた講和会議の結果、イタリアは北アフリカのトリポリ・キレナイカの支配権を獲得した。この戦争は、バルカン諸国を刺激し、セルビア・ブルガリア・モンテネグロ・ギリシアの4国はバルカン同盟を結成し、1912年オスマン帝国に宣戦布告した(第1次バルカン戦争)。セルビアがロシアの支援をえてアドリア海への進出を求めたことにオーストリアが強く反発し、ロシア・オーストリア両国は国境付近に大軍を集結させた。しかし、イギリスはロシアに圧力を加え、ドイツもオーストリアを抑制したため危機は回避された。
1913年5月のロンドン条約で、オスマン帝国はイスタンブル周辺をのぞくバルカン半島のほとんどを割譲した。しかし、その割譲された領土の分配にあたりセルビアとブルガリアがマケドニア地方の領有をめぐって争った。ギリシア・モンテネグロばかりでなく、ルーマニアもセルビア側について参戦した(第2次バルカン戦争)。この戦争に敗北したブルガリアはマケドニアなどを失った。これ以後、ブルガリアとオスマン帝国はドイツへの依存を強めていった。このように列強の二極化がバルカン半島のナショナリズムを刺激し、バルカン半島での勢力変動が列強の対立をさらに深化させたので、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた。
バルカン問題:ナショナリズムと列強の思惑が複雑に交差するバルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」とよばれた。
61.列強の国際対立の激化
三国協商の成立とバルカン半島の緊張
ロシアは日露戦争で東アジアでの南下政策を日本に阻止されたので、再びバルカン方面への進出に転じ、ドイツ・オーストリアと衝突するようになった。この結果、ロシアとイギリスは、イランにおける権益を調整して和解し、1907年に英露協商が成立した。この結果、イギリス・フランス・ロシアからなる三国協商が成立し、ドイツ包囲体制が確立された。イタリアは三国同盟の一員であったが、「未回収のイタリア」をめぐってオーストリアと対立するようになり、フランスに接近した。この結果、三国同盟の実態は、ドイツ・オーストリア同盟に近くなり、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアの安定を重視した。
以後、イギリス・ロシアの対立にかわり、イギリス・ドイツの対立が基本的な国際対立となり、対立の焦点は東アジアからバルカン半島に移った。バルカン半島では、パン=スラヴ主義をとなえるロシアと、その拡大をきらうオーストリアが対立した。オーストリアは国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶことをおそれていた。1908年にオスマン帝国に青年トルコ革命がおこると、その混乱に乗じてブルガリアが独立宣言し、他方オーストリアは管理下にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナ2州を併合した。しかし、この2州の編入をセルビアがねらっていたので、両国の対立は悪化した。
1912年、ロシアの支持のもとに、セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ、領土拡張をねらってイタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がおこった。オスマン帝国は敗れたが、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアの他の3国との間で再び戦争が始まり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国・ルーマニアもブルガリアを攻撃した。ブルガリアは敗北して、ドイツ・オーストリアに接近した。こうして「ヨーロッパの火薬庫」バルカンでは、小国と大国の利害が、そして民主主義が複雑にからみあい、小国の紛争が容易に大国間の戦争につながる危険な情勢がつくられていった。
61.列強の国際対立の激化
三国協商の成立とバルカン半島の緊張
1912年、ロシアの支持のもとに、セルビアなどバルカン4カ国間にバルカン同盟が結ばれ、領土拡張をねらってイタリア=トルコ戦争に乗じてオスマン帝国に宣戦し、第1次バルカン戦争がおこった。オスマン帝国は敗れたが、獲得した領土の分配をめぐって、ブルガリアの他の3国との間で再び戦争が始まり(第2次バルカン戦争)、オスマン帝国・ルーマニアもブルガリアを攻撃した。ブルガリアは敗北して、ドイツ・オーストリアに接近した。こうして「ヨーロッパの火薬庫」バルカンでは、小国と大国の利害が、そして民主主義が複雑にからみあい、小国の紛争が容易に大国間の戦争につながる危険な情勢がつくられていった。