第1次伊藤内閣( A.D.1885〜A.D.1888)
最初の内閣。閣僚のほとんどは薩長出身の藩閥内閣。外交では条約改正に努め、内政では保安条例を発して旧民権派を弾圧した。
第1次伊藤内閣
最初の内閣。閣僚のほとんどは薩長出身の藩閥内閣。外交では条約改正に努め、内政では保安条例を発して旧民権派を弾圧した。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
国家体制の整備
第1次伊藤内閣
官職 | 氏名 | 出身 | 年齢 | 爵位 |
---|---|---|---|---|
総理 | 伊藤博文 | 長州藩 | 45 | 伯 |
外務 | 井上馨 | 長州藩 | 51 | 伯 |
内務 | 山県有朋 | 長州藩 | 48 | 伯 |
大蔵 | 松方正義 | 薩摩藩 | 51 | 伯 |
陸軍 | 大山巌 | 薩摩藩 | 44 | 伯 |
海軍 | 西郷従道 | 薩摩藩 | 43 | 伯 |
司法 | 山田顕義 | 長州藩 | 42 | 伯 |
文部 | 森有礼 | 薩摩藩 | 39 | 子 |
農商務 | 谷干城 | 土佐藩 | 49 | 子 |
逓信 | 榎本武揚 | 幕臣 | 50 |
1885(明治18)年12月、政府機構の改革が行われ、太政官制が廃止となり、それにかわって近代的な内閣制度が創設された。すなわち、これまで皇族及び公家・大名出身者をもってあてていた太政大臣・左大臣・右大臣や、「藩閥」政治家の有力者が就任していた参議の職を廃し、各省の行政長官を国務大臣として、新しく内閣総理大臣をおき、その統轄のもとに各国務大臣をもって内閣を構成し、政治運営の中心とした。これは国会開設に備えて行政府の強化・能率化·簡素化をはかるとともに、責任体制を確立するのが目的で、これによって主に薩長出身の藩閥政治家たちが名実ともに実力者として、政治の中枢部を占めることになった。また内閣制度の制定に伴い、天皇の側近にあって相談相手(常侍輔弼)の任にあたる内大臣(初代三条実美)をおいて、御璽·国璽の保管など宮中の所務を管轄させ、また宮内省を内閣の外においた。こうして、府中と宮中の別を明らかにし、宮中を政治から切り離すようにした。なお、内閣制度の制定とともに、伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任して内閣を組織した(第1次伊藤内閣)。上の表のごとく、その10名の閣僚中4名が旧薩摩藩4名が旧長州藩出身者で閣僚の平均年齢は46歳余り(数え年)と壮年の実力派内閣であったが、反対派からは旧薩長出身者中心の藩閥内閣であるとして攻撃された。閣僚に占める旧薩長出身者の比率は、その後しだいに減少したが、大正の初めまで、公家出身の西園寺公望、旧肥前藩出身の大隈重信を除けば、総理大臣はいずれも旧薩長出身者で占められた。