第1次山県内閣( A.D.1889〜A.D.1891)
1890年に府県制を公布。1890年7月、第1回総選挙を実施、藩閥超然内閣として第一議会の乗り切りに努めた。同年10月には教育勅語を発布。
第1次山県内閣
1890年に府県制を公布。1890年7月、第1回総選挙を実施、藩閥超然内閣として第一議会の乗り切りに努めた。同年10月には教育勅語を発布。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
初期議会
第ー議会(1890〜91年)から第六議会(1894年)までのいわゆる初期議会においては、民党は衆議院の予算審議権などを武器として、しばしば政府と激しく対立した。第ー議会では民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに行政整理を主張し、政府提出の予算案を大幅に削減しようとし、政府(第1次山県内閣)と対立した。政府は民党の要求を一部認めることにより妥協をはかり、立憲自由党の土佐派(竹内綱〈1839~1922〉·林有造・植木枝盛ら)の協力を得て予算案を成立させ、かろうじてこの難局を切り抜けることができた。第ー議会で政府側と民党側が、相互に妥協的態度をとったのは、最初の議会から双方が正面衝突して衆議院が解散され、予算案が不成立に終わるようでは、欧米の先進国から日本人の立憲政治運営能力に疑問をもたれることになるので、双方ともにそうした事態を避けようという自制心をいだいていたことも大きな理由であろう。
条約改正
あとを受けた外相青木周蔵(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。
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