第2次伊藤内閣(
A.D.1892〜1896)
山県(法)・黒田(逓)・井上(内)ら大物藩閥政治家を擁するいわゆる元勲内閣。第一次条約改正を達成し、日清戦争に突入。日清講和条約を締結し、戦後1896年4月、板垣退助を内相に迎えて自由党と連携して戦後経営を行う。
第2次伊藤内閣
山県(法)・黒田(逓)・井上(内)ら大物藩閥政治家を擁するいわゆる元勲内閣。第一次条約改正を達成し、日清戦争に突入。日清講和条約を締結し、戦後1896年4月、板垣退助を内相に迎えて自由党と連携して戦後経営を行う。
総理:伊藤博文(長州閥)、外務:陸奥宗光(和歌山藩)、内務:井上馨(長州閥)、大蔵:渡辺国武(高島藩)、陸軍:仁礼景憲(薩摩閥)、司法:山県有朋(長州閥)、文部:河野敏鎌(土佐閥)、農商務:後藤象二郎(土佐閥)、逓信:黒田清隆(薩摩閥)
伊藤は第1次松方内閣が閣外にいた元勲(有力な藩閥政治家)の動向により、閣内の意見がまとまらなかったことをうけ、「元勲総出」で内閣を組織した。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
初期議会
第三議会(1892年)では松方内閣は選挙干渉の責任を追及され、閉会後は閣内の対立から総辞職し、第2次伊藤内閣が成立した。続く第四議会(1892〜93年)でも第2次伊藤内閣は軍艦の建造などの軍事予算削減を迫られたが、天皇の詔勅(和衷協同の詔)によって自由党と妥協してこれを乗り切った。第五議会(1893年)、第六議会(1894年)は立憲改進党などの対外硬派が条約改正問題で伊藤内閣を弾劾し、ついに2度とも衆議院解散が行われた。
この間に、政府部内でも伊藤博文や陸奥宗光(1844〜97)らは民党と妥協し、積極的にこれと手を握って政治を運営していくことを主張するようになった。ー方、政府に反対するだけでは「民力休養」の実があがらないことを悟った民党側のなかにも、政党を政策能力を身につけた現実主義的なものに改革し、政府と協力して政治の責任を分担していこうとする空気が生まれてきた。こうして1892(明治25)年の第2次伊藤内閣成立のころから、衆議院の第一党である自由党は、しだいに伊藤内閣に接近するようになり、これに反対する立憲改進党は自由党と対立して、政党相互の対立が目立つようになってきた。
条約改正
第2次伊藤内閣になって、外相陸奥宗光のもとで、改正交渉はようやく本格的に軌道に乗った。第五・六議会では、国民協会・大日本協会・立憲改進党などが対外硬派の連合戦線をつくって、外国人の内地雑居などに反対し、政府の改正交渉が「軟弱外交」であるとして政府を攻撃したが、政府はこれをおさえる一方、青木周蔵を駐英公使としてイギリスとの交渉を進めた。イギリスは、シベリア鉄道の敷設を進めていたロシアが東アジアに勢力を拡張することを警戒し、それと対抗する必要もあって、憲法と国会をはじめ近代的諸制度を取り入れ、国力を増大しつつある日本の東アジアにおける国際的地位を重くみて条約改正に応じ、1894(明治27)年7月、日英通商航海条約が締結された。その内容は、領事裁判制度の撤廃・最恵国条款の相互化のほか、関税については日本の国定税率を認めるが、重要品目の税率は片務的協定税率を残すというもので、この点ではまだ不十分であった。イギリスに続いて欧米各国とも新しい通商航海条約が結ばれ、いずれも1899(明治32)年に発効した。
日露戦争と国際関係
日清戦争と三国干渉
1894(明治27)年5月、朝鮮で民族主義的な東学を中心に、減税と排日を要求する大規模な農民の反乱がおこった(甲午農民戦争, 東学党の乱)。朝鮮政府は鎮圧のために清国に派兵を要請し、同年6月清国は軍隊を送った。日本もこれに対抗して直ちに出兵した。両国の出兵もあり、農民の反抗は収まったが、日本は日清両国で朝鮮の内政改革にあたることを提案した。しかし、清国政府はこれを拒否したので交渉はついに決裂した。ちょうどそのころ、日英通商航海条約が締結され、イギリスが日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣、陸奥宗光外相)も開戦を決意し、7月には豊島沖の海戦によって日清戦争が始められ、8月には正式に対清国宣戦が布告された。国内では、それまでしばしば対立・抗争を続けていた政府と政党が一致協力の態勢をとり、巨額の軍事予算も満場一致で可決されるなど、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められた。
日本側が明治維新以来、強い対外危機意識のもとで国内の改革を進めて立憲政治を実現し、国をあげて十分な準備をととのえ、よく訓練され近代的に組織化された軍隊をもっていたのに対し、清国側は国内の改革に立ち遅れ、政治的対立も激しく、専制政治のもとで国力を十分に発揮できなかったので、戦争は日本が圧倒的に優勢のうちに進められた。まもなく、日本海軍は黄海海戦で清国艦隊(北洋艦隊)を撃破し、陸軍は清国軍を朝鮮から一掃して、さらに遼東半島・山東半島の一部などをも制圧した。こうして、約2億円余り ❶ の戦費と約10万人の兵力を動員した戦争は、約8カ月で日本の勝利に終わった。戦争における日本軍の死者は約1万7000人で、その約7割が病死であった。
1895(明治28)年4月、伊藤博文首相、陸奥宗光外相が全権となり、清国全権全李鴻章間に日清間の講和条約が調印された。これが下関条約である。この条約によって、清国は日本に対して、①朝鮮の独立の承認、②台湾、彰湖諸島·遼東半島の割譲、③賠償金2憶両(日本円で約3億1000万円)の支払い、④日清通商航海条約の締結と沙市・重慶・蘇州・杭州の開市・開港、租界での治外法権などの承認、などを約束した。こうして、日本は朝鮮から清国の勢力を一掃して、大陸進出の第一歩を踏み出した。
それまで“眠れる獅子”といわれ、恐れられていた清国が、名もない東アジアの新興国日本に敗れ、弱体ぶりを暴露したことは、国際政局に大きな波紋を呼んだ。欧米列強はこぞって中国分割に乗り出した。なかでも、南満州へ進出の機会をうかがっていたロシアは、日本の進出を警戒して、下関条約が結ばれるや、ただちにドイツ・フランスとともに遼東半島を清国へ返還するように日本政府に申し入れてきた。これがいわゆる三国干渉である。日本はまだ、これらの大国に対抗できるだけの実力がなかったので、政府はやむなく清国から3000万両(約5000万円)の賠償金を追加して、遼東半島の返還に応じることにした。国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、「臥薪嘗胆」 ❷ の合言葉が叫ばれるようになり、政府もそうした気運のなかで軍備拡張と国力の充実をはかった。
日清戦争後の政府と政党
日清戦争は、政府と政党との関係に大きな変化をもたらした。戦争中、政府と政党は政争を一時中止して「挙国一致」で戦争遂行にあたったが、戦後になると、政府(第2次伊藤内閣)と衆議院の第一党である自由党は戦後経営をめぐって共同歩調をとり、1895(明治28)年11月、両者は公然と提携を宣言し、軍備拡張などを盛り込んだ予算案を認めた。そして、翌年4月には板垣退助が内務大臣として第2次伊藤内閣に入閣した。これより、同内閣は事実上、自由党との連立内閣となった。
第2次伊藤内閣 1892年(明治25年)〜1896年(明治29年)
官職 | 氏名 | 出身 | 爵位 | 備考 |
総理 | 伊藤博文 | 長州藩 | 伯 | |
外務 | 陸奥宗光 西園寺公望 | 紀州藩 公家 | 子 侯 | 1896年5月30日免 文部大臣兼任 |
内務 | 井上馨 野村靖 | 長州藩 長州藩 | 伯 子 | 1894年10月15日免 1896年2月3日免 |
芳川顕正 | 徳島藩 | 子 | 司法大臣兼任 1896年4月14日免 |
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板垣退助 | 土佐藩 | 伯 | 自由党総理 | |
大蔵 | 渡辺国武 松方正義 渡辺国武 | 諏訪藩 薩摩藩 諏訪藩 | 伯 伯 伯 | 1895年3月17日免 1895年8月27日免 逓信大臣兼任 |
陸軍 | 大山巌 | 薩摩藩 | 伯 | 留任 |
海軍 | 仁礼景範 西郷従道 | 薩摩藩 薩摩藩 | 子 伯 | 1893年3月11日免 国民協会会頭 |
司法 | 山県有朋 芳川顕正 | 長州藩 徳島藩 | 伯 子 | 1893年3月11日免 内務大臣兼任、文部大臣臨時兼任 |
文部 | 河野敏鎌 井上毅 | 土佐藩 肥後半 | 1893年3月7日免 1894年8月29日免 |
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芳川顕正 | 徳島藩 | 子 | 内務、司法大臣兼任 1894年10月3日免 |
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西園寺公望 | 公家 | 侯 | 外務大臣兼任、枢密顧問官、勲章局総裁 | |
農商務 | 後藤象二郎 榎本武揚 | 土佐藩 幕臣 | 伯 子 | 留任 |
逓信 | 黒田清隆 | 薩摩藩 | 伯 | 1895年3月17日免 |
渡辺国武 | 諏訪藩 | 子 | 大蔵大臣兼任 1895年10月9日免 |
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拓殖務大臣 | 高島鞆之助 | 薩摩藩 | 子 | |
班列 | 黒田清隆 | 薩摩藩 | 伯 | 枢密院議長 |