荘園制
「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」(リンブルク兄弟, バーテルミー・デック作/コンデ美術館蔵) ©Public Domain

荘園
中世西ヨーロッパ: 主君から家臣に封土として貸与された封土。耕作者としての農民も含まれ、家臣は領主として荘園内の農民を支配した。領主は領内の司法・警察に関係する独自の領主裁判権や不輸不入権を認められていた。7〜8世紀に始まった古典荘園は技術革新により13〜14世紀ころ純粋荘園が一般化した。
日本の荘園:荘園 – 世界の歴史まっぷ

荘園制

ヨーロッパ世界の形成と発展

荘園制
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

荘園制
西ヨーロッパは、12〜13世紀ころに都市と商業が発達するまで、ほぼ自給自足の自然経済が支配する農業社会であり、それは荘園制に支えられていた。
荘園は、通常主君から家臣に封土として貸与されたものであるが、封土には耕作者としての農民も含まれており、家臣は領主として荘園内の農民を支配することになった。領主は、領内の司法・警察に関係する独自の領主裁判権をもつほか、国王の役人の領内への立ち入りや課税を拒否する不輸不入権(インムニタス)をも認められていたため、社会の分権化が一層進んだ。この時代の農民の多くは農奴といわれる半自由民で、家族・住居・農具の所有権は認められたものの、よその土地に移動したり、職業を変えたりすることはできなかった。また、中世初期の農民集落は散村が一般的であり、荘園も一つの土地にまとまっていることより散在している場合が多く、各荘園は領主の派遣した荘園役人(荘司)におさめられていた。
荘園制(中世ヨーロッパ) 封建社会の構造(中世ヨーロッパ)
封建社会の構造(中世ヨーロッパ)©世界の歴史まっぷ
古典荘園

荘園内の土地は領主が直接経営する直営地と、農奴の家族経営に任せられる保有地(託営地)および森林・牧草地・湖沼などの共有地とからなっていた。また、農奴は保有地の地代として生産物を納める(貢納)ほか、週2日程度領主直営地を耕作すること(賦役ふえき)が義務付けられていた。こうした形態の荘園は古典荘園と称され、7〜8世紀に始まって10世紀頃にはほぼ西ヨーロッパに共通してみられるようになった。農奴の負担は、貢納と賦役のほかに、教会に対する収穫物の十分の一税、結婚税、死亡税、領主の独占する各種施設(水車・パン焼き窯・ブドウ搾り器)の使用料支払いなど、多岐にわたった。

結婚税は労働力の稼働に対する補償であり、死亡税はいわば保有地の相続税であった。
純粋荘園

しかし、第2次民族大移動(ヴァイキングの活動 – 世界の歴史まっぷ)の混乱期をつうじて、農民たちは次第に有力な領主の近くに集まり住むようになり、集村的農業社会が形成された。それとともに、一定の領域を一円的に支配する新たな領主権力が誕生した。また、牛や馬に鉄製の重量有輪すきをひかせる耕作法や、農地を春耕地・秋耕地・休耕地の3つに区分して地味の消耗を防ぐ三圃制農法さんぽせいのうほうが普及するなど、農業状の技術革新が進むと、農民の保有地からの貢納に依存する純粋荘園の形態が一般化し、さらに貨幣経済の浸透に連れて地代の金納化が進み、農奴の地位も次第に向上していった。

中世の荘園は領主の館と教会を中心とし、耕地は秋耕地、春耕地、休耕地にわけられていた。各耕地は畜力を利用した重いすきで耕したため、細長い地条にわけられ、農民は散在する地条を保有していた。このため、共同農業作業が実用的であった。

参考 山川 詳説世界史図録

荘園制
荘園の構造 重量有輪棃の使用は、上図農地の短冊状の畑形(地条)を生みだし、農地の共同作業を助長したので、集村化が進んだ。(図:詳説世界史図録 山川出版社)

荘園制(中世ヨーロッパ) – 世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

封建制・荘園制の崩壊

都市と商業の発達は、必然的に貨幣経済の浸透を促した。現物経済に依存してきた荘園領主も貨幣を必要としはじめ、12〜13世紀ころから経営の見直しを迫られるようになった。そこで、直営地を解体して農民に分割貸与し、従来の賦役を生産物地代ないしは貨幣地代に切り替えていった。いわゆる古典荘園から純粋荘園への変化がこれである。だた、それは旧来の領主・農民関係を大きく変えることになった。すなわち、領主の人格的支配は次第に緩み、貨幣を蓄えた農民の中には、多額の解放金を支払うことにより、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れたのである。

この農奴解放は、14〜15世紀になるとさらに促進された。百年戦争バラ戦争などの相次ぐ戦乱とペスト黒死病)の大流行により、農村人口が激変したからである。特に、1347〜1348年のペストの流行は、イタリア半島や南フランスからほぼヨーロッパ全土に波及し、全人口の3分の1から5分の1を奪ったと言われる。農業労働力の不足に対処するため、領主は地代を軽減したり、農民の土地保有権を強化して保有地の売買や貸借の自由を認めるなど、待遇の改善をはかった。こうした動きは、一般に「封建制(領主制)の危機」と称されるが、結果的に領主は地主化し、農民も少額の地代を納めるだけで身分的にはほとんど自由な独立自営農民ヨーマン)となった。ヨーマンの誕生は、地代の金納化のもっとも進んでいたイギリスで顕著にみられた。また、フランスを中心とするエルベ川以西の地域では、生産物地代を負担する小規模経営の農民が多数生まれることになった。

ペストの流行都市の恐怖

12世紀を中心とする前後200年のヨーロッパは、農業的高度成長の時代であったが、それを支えた農業技術の革新も限度に達し、13世紀半ばには開墾運動が沈滞するようになった。穀物生産も伸び悩み、人口増加による穀物価格の上昇は、14世紀以降の人々を慢性的な栄養失調状態に陥れた。そこにペストの大流行である。人々はペストの格好の餌食となった。日常化する死のなかで、人々は死の恐怖を増幅させた。そうした恐怖のなかで、人々はさまざまな祈願・祈祷を行った。なかには、十字架と革紐を手にして行進し、聖歌を歌いながらはだけた上半身を鞭打つ苦行者の群れも見られた。あるいは、南フランスやライン沿岸の諸都市では、ペストの流行をユダヤ人の仕業と考える人々により、ユダヤ人の虐殺が行われた。また、絵画や彫刻の主題にも死が取り上げられ、墓地のフレスコ画などに「死者の舞踏」「死の勝利」が描かれた。イタリア・ルネサンスが人間の生を追求したのも、死と隣り合わせの時代であったからだということもできる。

だた、封建制の危機に際して、農民の土地を直営地に吸収して賦役労働を強化し、農奴制の再編(再販農奴制)をはかる動きも見られた。特にエルベ川以東のドイツにこの傾向は強く、15〜16世紀以降、大規模な直営農地経営(ブーツヘルシャフト)によって穀物を主とする商品作物が生産され、西ヨーロッパ諸国に輸出された。
一方、西ヨーロッパ諸国においても、領主の中には封建的支配を復活しようとして(封建反動)、農民一揆を招くこともあった。百年戦争初期の1358年、戦乱による荒廃と重税に苦しめられた北フランスの農民と手工業者らは、ギヨーム・カルルを主導者に蜂起し、地区ごとに組織を作って領主の城館を襲撃した(ジャックリーの乱)。折から、パリ市内でもエティエンヌ・マルセルを中心とする市民の反乱がおこっており、それと呼応するかのように、ジャックリーの乱はパリ一帯からシャンパーニュ・ピカルディ地方に広まった。だが、ギヨーム・カルルが捕らえられ処刑されると、反乱は急速に勢いを失い鎮圧された。

イギリスでも、1381年ワット・タイラーの乱がおこった。百年戦争の戦費確保のために導入された人頭税に農民が反発、ワット・タイラーや説教僧のジョン・ボールに率いられ、イングランド東南部からロンドン市内に進撃し、一時ロンドンを占領した。リチャード2世(イングランド王)との直接交渉により、農奴制の廃止、取引の自由、地代の減額などを約束させたが、まもなくタイラーは奸計にかかって殺され、反乱は鎮圧された。約束は取り消され、ジョン・ボールらの指導者も捕らえられ、処刑された。だが、その後も各地で反乱が続発し、結局農民たちは身分上の自由を勝ち取っていった。

荘園制の解体は、中小領主層や騎士の経済的・政治的基盤を掘り崩し、封建制の崩壊をもたらした。中世の戦う階層を象徴する騎士は、剣・槍・弓・盾などの武器と重い甲冑で身を固め、個人的な騎馬戦を得意としたが、14〜15世紀に大砲や小銃などの火砲(火器)が発明されると、次第に歩兵戦が戦闘の主役となった。また、封建契約に基づく騎士の軍役奉仕では、実際の戦闘には不都合をきたすことも多く、百年戦争以降各国で傭兵隊による常備軍の形成が進んだ。こうした戦術や兵制の変化は騎士の没落に拍車をかけた。没落を免れた騎士も、国王の宮廷にすがる廷臣と化し、自立性を失っていった。こうして、中世末期には、常備軍と廷臣官僚)に支えられて王権は伸張し、国内市場の統一を望む市民階級(大商人)と提携して、中央集権化をはかることになった。

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