莫高窟
千仏洞ともいわれる莫高窟は敦煌の南東約30Kmにあり、南北約1600mにわたり490もの石窟がある。そのうち、約400の石窟の内部には、仏教の教えを描いた壁画や仏像があり、中国の仏教絵画資料として貴重なものである。草創は4世紀といわれるが、現存する最古のものは5世紀初頭につくられた。その後約1000年にわたり石窟の造築や修復が続けられた。
中国の世界遺産「莫高窟」に登録されている。
莫高窟
シルク・ロードの中継点、敦煌
敦煌は、前漢時代にシルク・ロードの中継地点として発展した。中国や西方の物資や文化は敦煌を通って運ばれ、東西の人々の交流も活発に行われた。インドで誕生した仏教も、中央アジアから敦煌を経て中国に伝わった。
中国三大石窟のひとつである莫高窟は、西方から来た楽僔という僧侶が366年に掘り始めたと伝えられ、13世紀まで造営が続けられた。
735の石窟のうち、敦煌文書研究所によって窟番号がつけられているものは492番まである。造営された時代は、隋代に97窟、唐代に225窟と集中している。莫高窟には2,000体以上の仏像が安置されており、「千仏洞」とも呼ばれている。ブッダの前世の説話や伝記などを描いた壁画もあり、これらを全てつなぎ合わせると約25km,総面積は4万5,000㎡にもなる。また、莫高窟にある窟擔のうち最大の九層楼には、莫高窟最大の約35mの仏像が納められている。
1900年、道士の王円籙が、莫高窟内で、経典、文書、絹本の絵画、刺繍など5万点以上の文書を発見した。その中には、さまざまな言語で書かれた写本も多数含まれていた。彼の発見後、イギリスやフランス、ロシアなどの探検家たちがやって来て本国にこの文書を持ち帰ったために、世界各国に散逸してしまった。
「敦煌文書」と呼ばれるそれらの文書類は、仏教、道教、儒教の経典や史書、小説、民間伝説、戸籍、契約書などで、資料的価値がきわめて高い。
このように文化・建築・交易・芸術的に高い価値をもつ敦煌の莫高窟は、文化遺産の登録基準(ⅰ)〜(ⅵ)を全て満たす数少ない遺産である。
東西交易路はシルク・ロードだけではない
「シルク・ロード」はユーラシア大陸の東西交易路として有名であるが、その北部のルート「ステップ・ロード(草原の道)」や南方の海上を走る「マリン・ロード(海の道)」も東西交易路として重要な役割を果たした。
歴史
敦煌市の東南25kmに位置する鳴沙山の東の断崖に南北に1,600mに渡って掘られた莫高窟・西千仏洞・安西楡林窟・水峡口窟など600あまりの洞窟があり、その中に2400余りの仏塑像が安置されている。壁には一面に壁画が描かれ、総面積は45,000平方メートルになる。敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合、広義ではこの全てを含むことになるが、歴史・規模・内容全てに渡って莫高窟が圧倒しているために敦煌石窟・敦煌千仏洞と言った場合でも莫高窟のことを指すのが普通である。
作られ始めたのは五胡十六国時代に敦煌が前秦の支配下にあった時期の355年あるいは366年とされる。仏教僧・楽僔が彫り始めたのが最初であり、その次に法良、その後の元代(元朝)に至るまで1000年に渡って彫り続けられた。現存する最古の窟には5世紀前半にここを支配した北涼の時代の弥勒菩薩像があるが、両脚を交差させているのは中央アジアからの影響を示している。それ以前のものは後世に新たに掘った際に潰してしまったようである。窟のうち、北部は工人の住居となっており、ここには仏像や壁画は無い。
壁画の様式としては五胡十六国北涼、続く北魏時代には西方の影響が強く、仏伝(ブッダ)・本生譚(ジャータカ)・千仏などが描かれ、北周・隋唐時代になると中国からの影響が強くなり、『釈迦説法図』などが描かれるようになる。期間的に最も長い唐がやはり一番多く225の窟が唐代のものと推定され、次に多いのが隋代の97である。北宋から西夏支配期に入ると、敦煌の価値が下落したことで数も少なくなり西夏代のものは20、次の元代の物は7と推定されている。この頃になると敦煌はまったくの寂れた都市となっており、以後は長い間、莫高窟は忘れられた存在となる。
この莫高窟が再び注目を浴びるのが、1900年の敦煌文書の発見によってである。詳しくは敦煌文書の項を参照。しかしその後も莫高窟自体にはあまり注目が集まらず、その価値が認められ、保護が行き届くようになるのは中華人民共和国成立以後のこととなる。