藤原道長(
A.D.966〜A.D.1027)
兼家の子。氏長者。甥伊周と政権を争って勝ち、995年に内覧となる。彰子・姸子・威子・嬉の4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀天皇の妃とし、前後30年にわたって権勢をふるった。1016年に摂政、17年に太政大臣となり、藤原氏の全盛期を現出した。晩年には法成寺を造営し、御堂関白といわれた。
藤原道長
兼家の子。氏長者。甥伊周と政権を争って勝ち、995年に内覧となる。彰子・姸子・威子・嬉の4人の娘を一条・三条・後一条・後朱雀天皇の妃とし、前後30年にわたって権勢をふるった。1016年に摂政、17年に太政大臣となり、藤原氏の全盛期を現出した。晩年には法成寺を造営し、御堂関白といわれた。
摂関政治の全盛を謳歌した藤原の氏長者
欠けたるところのない栄華を詠った「望月の歌」
1018年(寛仁2)、藤原道長の娘・威子が、後一条天皇のもとに入内し、中宮となる儀式を終えた日、道長の御殿・土御門邸で盛大な祝宴が挙行された。道長はこの宴席で酔いにまかせ、そのうれしさを誇らしげに歌に詠んだ。
この世をば
わが世とぞ思ふ望月の
欠けたることの
なしと思へば
「望月」とは満月のこと。満月を自分の栄華と照らし合わせ、満月がどこも欠けていないように、自分は今、この世に大変満足している、という道長自身の気持ちを素直に詠ったものである。いならぶ公卿たちは、この望月の歌を、声高らかに唱和したのであった。
しかし、このとき道長の肉体は病にむしばまれていた。その原因は、道長がこれまでに失脚させてきた多くの貴族たちの怨霊によるものだとも噂されていた。怨霊退散のお祓いを受けてはみたが、病の発作は続き、翌年3月にはかなり重い発作に襲われてしまう。
さしもの道長も病魔には勝てず、現世を捨てて来世を頼みとするようになり、延暦寺の高僧の導きによって出家する。数え54歳の年であった。
負けず嫌い:父兼家が息子たちを前に、藤原公任の神童ぶりを讃え「お前たちは公任の影も踏めまい」と嘆くと、黙した兄たちを尻目に道長は「影なんか踏むものか。面を踏んでやる」と言い放ったという。
五男坊が氏長者になったその経緯と一部始終
道長は966年(康保3)、藤原兼家の五男として生まれた。五男だったので、誰もが華やかな出世をするとは思っていなかった。
兼家は、娘が産んだ一条天皇の摂政となり、権勢を振るった人物である。
しかし、兼家のあとを継いだ長兄で関自の藤原道隆が995年(長徳1)に死ぬと、続いて関白となった四男の藤原道兼もわずか数日間務めただけで、あっけなく死んでしまった。
こうして2人の関白が続いて没したのち、一条天皇は次の関自の選定に迷った。
もっとも有力だったのは、前関自の弟である、当時30歳の藤原道長だったが、もうひとり、関白の座を狙う人物がいた。道隆の長男の藤原伊周である。
道長にとっては、甥にあたる人物で、22歳ながらすでに内大臣を務めた経験をもつ実力者であった
。
一条天皇の中宮の藤原定子は、伊周の妹にあたる。この勝負は伊周に軍配があがるかに見えた。
ところが、一条天皇の母・東三条院詮子は道長の姉であり、終始道長に味方したのである。
わが子一条天皇が、どちらを選ぶべきか決めかねているのを見ると、詮子は「世のため、天皇のために、よかれと思い、道長を推薦するのです」といって一条天皇に詰め寄った。
そこで一条天皇もついに意を決し、道長を内覧とする宣旨を下す。
内覧とは、天皇にいろいろなことを申し上げ、また天皇が出す書類を前もって見る役で、摂政・関白に準じる役職である。道長は伊周を抑え、朝廷の首座を占めることになった。
こうして道長は五男でありながら、藤原氏の代表者である氏長者となり、政界を牛耳る地位のほに昇ったのである。
正妻二人:一条天皇の御世には、皇后と同格の中宮という新ポストが登場。道長はこの制度を作ることによって、強引に中宮定子を皇后に、娘の彰子を中宮にしてしまう。正妻二人という珍現象だ。
天皇家以上の権力者に
2人の勝負は一応ついたものの、内大臣の伊周の失望と不満は募るばかりである。誰の日から見ても、両者の間はこのまま収まりそうにはなかった。
ところが、伊周と弟の藤原隆家が、誤って花山法皇に矢を射かけるという、とんでもない事件を引き起こしたうえに、伊周が東三条院詮子を呪い殺そうとした疑いがもち上がった(長徳の変)。
これにより伊周は九州の大宰府に流され、「中の関白家」と呼ばれた伊周一族の勢いは急速に衰退。以後、道長と対立する勢力はなくなつてしまった。
事件後まもなく、道長は左大臣に進むことになり、あわせて内覧を務めた。そして、自分の父たちがやってきたように、次々と自分の娘を天皇に人内させる。まず、12歳になったばかりの長女の彰子を一条天皇に入内させることに成功した。紫式部が仕えたことでも有名な彰子は、それから9年ののち、敦成親王を産み、やがて親王が後一条天皇として即位、外祖父の道長は摂政となり、その地位はもはや揺るぎないものになつた。
道長はこのほか、次女の妍子を三条天皇に入内させた。
中宮となつた妍子には親王が産まれなかったが、三女の威子を彰子の産んだ後一条の中官とすることに成功。これで道長の娘3人が后となったのである。このとき、威子が中宮、妍子が皇太后(先代天皇の皇后)、彰子が大皇太后(先々代天皇の皇后)という「一家三后」を実現、道長一門の繁栄は、人もうらやむほどのものとなった。道長は摂政の位には就いたが、それは一年ほどである。そして道長は結局関白にはならなかった。頂点を極めた道長にとって関白の地位に固執する必要がなかったからであろう。
御堂関白記(国宝):藤原道長が全盛期につけた日記で、998〜1021年を記録。道長は生涯、関白には就任していない。なぜ『御堂関白記』と呼ばれるのかは不明。
法成寺を建立した晩年の道長
1017年(寛仁1)、52歳の道長は、病気のために摂政の位を長男の藤原頼通に譲ったが、その後も大政大臣として権力をほしいままにした。一方で多くの荘園をもち、ありあまるほどの財力も手に入れた。
道長はその後、浄土宗に深く帰依し、54歳のとき出家。62歳でこの世を去るまで、念仏三味の世界に入った。そのための場として道長が建立したのが、法成寺であった。
この法成寺は、栄華を極めた道長が極楽浄土を形にしようとしたものである。道長邸であった土御門邸と同じくらい広い伽藍をもち、五大堂・金堂・講堂・阿弥陀堂などが立ち並ぶ大寺である。病床に伏せた道長を後一条天皇が見舞ったともいう。法成寺は、美しい中にも厳かな佇まいを見せていた。
この世(現世)の栄華を誇って望月の歌を詠んだ道長は、この華麗な塔や堂を眺めながら、あの世(来世)でも、安楽な生活が約束されているかのような、満足感を覚えたことであろう。
道長が、この法成寺で62歳の生涯を終えたのは、1027年(万寿4)のことであった。
阿弥陀仏の糸:危篤状態に陥った道長は、病の床を法成寺の阿弥陀堂に移した。道長は安置されていた9体の阿弥陀如来の指に結びつけた五色の糸を自分の指にも結びつけ、なくなったという。
藤原頼通が、道長没後、宇治の別荘を寺に改めたもの。阿弥陀堂中堂の左右に翼廊、後ろに尾廊があり、鳥が翼を広げた姿に似ているため鳳凰堂と呼ばれる。世界遺産。
貴族政治と国風文化
摂関政治
摂関政治(摂関家)
藤原良房・藤原基経の時代から、11世紀半ばころまでの、摂政・関白のもとで国政が運営される政治を摂関政治という。摂政・関白を出す家柄を摂関家と呼ぶが、摂関の地位は藤原忠平の子孫に独占され、さらに藤原道長以後はその子孫(御堂流)に限定された。
摂関家の中で摂政・関白など最高の地位についたものが藤原氏の「氏長者」となったが、10世紀末までは藤原兼通と藤原兼家、藤原道隆と藤原伊周と藤原道長ら、摂関家内の兄弟や叔父・甥の間で「氏長者」の地位が争われた。結局、道永がこれらの争いに最終的に勝利し、彼とその子藤原頼通の時代、すなわち11世紀半ばまでの約50年間、摂関家は全盛期を迎えた。道長は自らの娘を4人を皇后や皇太子妃とし、後一条天皇の外祖父として大きな権力を握った。頼通も外伯父として、後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の摂政・関白となった。
氏長者は、氏の代表者で、平安時代には藤原・源・橘の各氏などに見られる。特に藤原氏の場合、氏として所有する荘園・邸宅(殿下渡領)を伝領したり、大学別曹(勧学院)・氏神(春日大社)・氏寺(興福寺)を管理することを通じて、氏全体に大きな力を及ぼしていた。
摂関政治とは、摂政・関白が天皇の権限の一部または大部分を自分のものとのして国政を運営する体制のことで、天皇が幼少であったり病弱であったりした場合には、摂政が天皇の権限をほぼ代行し、天皇が成長すると関白となってその職務を補佐した。
しかし摂政・関白の地位の背景には、夫婦は当初妻方の家の庇護を受け、生まれた子供は妻の父(外祖父)が養育・後見するという当時の貴族社会の慣行が存在していたため、摂政・関白として国政を主導していくためには、天皇の外戚(とくに外祖父)であるという条件が重視された。したがって、天皇の外戚でない人物が摂関となっても(例えば藤原実頼・藤原頼忠ら)、権力を十分にふるうことができず、逆に藤原道長が後一条天皇の摂政をわずか1年あまりで辞しているのは、外戚としての地位が確立していれば、必ずしも摂関の地位にこだわらなくてもよかったことを示している。
摂関政治の時代には、律令国家の官制が大きな枠組みとして残っていたので、天皇及びこれを代行・補佐する摂政・関白と太政官が中心となって政治が運営された。すなわち、重要な政務については、天皇や摂関が太政官の幹部職員である公卿(議政官)による合議(陣定)などを参考にして決済し、それ以外の事項については、公卿が処理していた。
このような政務のうち、とくに叙位(位階の授与)・除目(官職の任命)に摂関は大きな権限をもっており、また公卿や皇后・東宮・太上天皇など(院宮王臣家)にも官吏を推挙する権利があったため、この時代には皇族や摂関をはじめとする上流貴族に権力が集中した。また経済的な利権の大きい受領の地位を希望するものからの貢献物などで、摂関などには莫大な富が集中した。
一方、摂関家や一部の上流貴族の範囲から外れた多数の官人たちは、受領となって富を蓄積する道を選んだり、特定の学問や技能によって朝廷や摂関家に仕える道を選ぶようになり、次第に貴族層の家柄や上下関係が固定していくことになった。
日記と儀式書
摂関政治の時代になると、積極的に新しい政策をかかげて国政を運営していくというよりは、朝廷の行事や儀式を先例通りに行っていくことが貴族としての最も重要な職務と考えられるようになった。そこで、日常の政務や儀式の作法を細かく記録して、本人や子孫の参考にするため、貴族は日記をつけるようになった。この時代の貴族の日記としては、藤原道長の『御堂関白記』がとくに有名だが、そのほかにも道長と同時代の貴族の日記として、藤原実資の『小右記』藤原行成の『権記』などがある。また、朝廷の儀式や年中行事の作法を記した儀式書も、この時代には数多くつくられた。源高明の『西宮記』や藤原公任の『北山抄』が代表的なもので、これらの日記や儀式書を読むことによって、摂関政治の時期の政務や儀式の様子を詳細に知ることができる。
国宝文化
国宝美術
建築
平等院 – 世界の歴史まっぷ
浄土教の流行は、その念仏の方式から美術の面にも大きな影響を与えた。建築では、現世に極楽浄土の姿を表すということから、池を中心とする庭園の正面(西側)に阿弥陀如来を安置した阿弥陀堂を配する寺院建築が発達する。
藤原道長が建立した法成寺は、その壮麗さで著名だが現存せず、その子頼通が宇治の別荘に建てた鳳凰堂を中心とする平等院が代表的な遺構として残っている。鳳凰堂の本尊は、当時の代表的な仏師定朝の作になる平等院阿弥陀如来坐像である。定朝は多くの需要にこたえるため、仏像の各部分を別々の工人に分担して制作させ、これを寄せ合わせて1体の像とする寄木造の技法を完成した。また鳳凰堂の扉や壁には、極楽往生をとげる人物や、彼らを迎える阿弥陀仏の姿が描かれており、これも当時の念仏のあり方を示している。なお、阿弥陀仏が往生しようとする人々を迎えに現世に来臨する姿を描いた絵画は来迎図と呼ばれており、高野山聖衆来迎図がその代表的作品として残されている。
浄土の信仰
貴族の浄土信仰
藤原道長は、晩年法成寺の建立を急ぎ、臨終に際しては九体阿弥陀堂のなかに臥して、目には弥陀の尊像を拝し、耳で尊い念仏を聞き、心に極楽浄土を思い、阿弥陀仏の手から伸びる糸を握りながら最後の息をひきとったといわれる。当時の貴族の考える浄土は、この世においてその美しさを味わおうとする美的要求の強いもので、いわば聞く念仏、見る極楽の教えてあり、鎌倉時代の法然や親鸞らの浄土信仰とは大きく異なるが、優れた浄土教美術を生み出した意義は大きい。
系譜
- 父:藤原兼家 – 右大臣藤原師輔の三男
- 母:藤原時姫 -摂津守藤原中正の娘
- 妻:源倫子 – 左大臣・源雅信女、母は藤原朝忠の娘・穆子
長女:藤原彰子(988-1074) – 一条天皇皇后(号中宮)。後一条天皇・後朱雀天皇の母
長男:藤原頼通(992-1074) – 摂政・関白。藤原寛子(後冷泉天皇皇后)の父。藤原嫄子(後朱雀天皇中宮)の伯父で養父。
次女:藤原妍子(994-1027) – 三条天皇皇后(号中宮)。禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の母
五男:藤原教通(996-1075) – 関白、藤原歓子(後冷泉天皇皇后)の父
四女:藤原威子(1000-1036) – 後一条天皇皇后(号中宮)。章子内親王(後冷泉天皇中宮)、馨子内親王(後三条天皇中宮)の母
六女:藤原嬉子(1007-1025) – 後朱雀天皇東宮妃。後冷泉天皇の母 - 妻:源明子 – 左大臣・源高明女、盛明親王養女
次男:藤原頼宗(993-1065) – 右大臣・中御門流の祖
三男:藤原顕信(994-1027) – 入道前右馬頭
四男:藤原能信(995-1065) – 権大納言
三女:藤原寛子(999-1025) – 敦明親王女御
五女:藤原尊子(1003?-1087?) – 源師房室
六男:藤原長家(1005-1064) – 権大納言・御子左家の祖 - 妾:源簾子 – 上東門院門院女房大納言、源扶義の娘
- 妾:源重光の娘
七男:長信(1014-1072) – 東寺法務僧正 - 妾:藤原儼子 – 太政大臣・藤原為光の四女
- 妾:藤原穠子
なお、養子・猶子となった者に実父の出家・死去によって縁戚の道長が後見を務めた源成信(致平親王の子・倫子の甥)、道長の実の孫でその昇進の便宜のために道長が養子とした信基(教通の子、後の通基)・藤原兼頼(頼宗の子)、同様のケースと考えられる道長の異母兄道綱の実子である藤原兼経・道命(四天王寺別当兄弟が挙げられる。この他に正式な縁組は無かったものの、源経房(源高明の子、明子の実弟で道長が後見を務めた)や藤原兼隆(道兼の子)もこれに准じていたと言われている。
参考 Wikipedia