西郷隆盛 (
A.D.1827〜A.D.1877)
薩摩藩士。下級武士として尊攘運動に活躍し、薩長連合を結ぶ。戊辰戦争の参謀。1871年に参議となり、廃藩置県に尽力。しかし征韓論により下野し、1877年、西南戦争をおこして敗れ、自刃した。
西郷隆盛
薩摩藩士。下級武士として尊攘運動に活躍し、薩長連合を結ぶ。戊辰戦争の参謀。1871年に参議となり、廃藩置県に尽力。しかし征韓論により下野し、1877年、西南戦争をおこして敗れ、自刃した。
明治維新の指導者。鹿児島藩主島津斉彬に取り立てられる。安政の大獄と斉彬の死を契機に入水自殺を図る。その後、公武合体を目指す島津久光のもとで活躍するも、久光と衝突し、配流。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。以後、討幕へと方向転換をはかり、坂本竜馬の仲介で長州の木戸孝允と薩長連合を結ぶ。勝海舟とともに江戸城無血開城を実現し、王政復古のクーデターを成功させた。新政府内でも参議として維新の改革を断行。明治6年(1873)征韓論に敗れ下野。10年郷里の私学校生徒に促されて挙兵(西南戦争)するが、政府軍に敗北し、自刃した。
明治維新を演出した薩摩の巨魁
維新第一の功臣 人々を惹きつける隆盛の謎
西郷隆盛は、戊辰戦争終息後に明治新政府が行った論功行賞で、維新第一の功臣として賞典禄永世2000石を下賜された。確かに、薩長同盟締結、王政復古、そして江戸城無血開城と、新政府樹立までの隆盛の働きは目覚ましく、維新の主役中の主役ともいうべきものである。しかしそれから8年後、隆盛は旧薩摩藩士族を中心とする反乱・西南戦争で政府軍の鎮圧を受け、自刃するにいたった。「維新の功臣、明治の逆臣」と呼ばれるゆえんである。
島津斉彬との出会いで幕末中央政界にデビュー
隆盛は1827年(文政10)、薩摩藩下級士族の長男として鹿児島城下に生まれた。実家は弟妹が多く貧しかったため、隆盛は8歳で郡方書役助(収税書記見習い)となり、以後10年余を農政の現場で働く。農村回りで知った農民の苦境を訴えようと書いた農政に関する建白書が、隆盛を歴史の表舞台に押し上げる契機となった。1854年(嘉永7)、建白書を目にとめた藩主。島津斉彬によって参勤の随従を命じられ、隆盛は江戸に出た。やがて藩主の私設秘書官ともいうべき庭方役に抜擢され、開明派君主として知られた斉彬から政治問題、世界情勢などについて教えを受ける。在府時代に、水戸の藤田東湖、や越前の橋本左内といった名士たちと交流して国事を論じ、隆盛はしだいに諸藩士の間で名を知られる存在となっていった。薩摩しか知らなかつた隆盛の世界は、斉彬に見出されたことによって大きく開けたのである。
雌伏の日々を超え維新実現に向け大活躍
1858年(安政5)に斉彬が急死すると、薩摩の藩論は守旧派に傾く。隆盛は安政の大獄の余波で奄美大島に潜居、その後も島流しに遭うなど無為の日々を送った。1864年(元治1)に赦免されて上京すると、
当初は反長州として薩摩藩の陣頭指揮をとる。しかし第二次長州征伐を前に、坂本龍馬らの斡旋により長州の木戸孝允と薩長同盟を締結。隆盛は武力倒幕を視野に入れ、大きく舵を切った。隆盛はその後朝廷や諸藩に精力的な政治工作を行い、王政復古の大号令、鳥羽・伏見の戦いと幕府を追い込み、新政府によって徳川慶喜追討令が出されると大総督府下参謀となって東下。総攻撃を前に勝海舟と折衝し、江戸城無血開城を実現して江戸を戦禍から救った。
敗北覚悟で西南戦争に
維新の立役者というべき隆盛だが、戊辰戦争が落ち着いたあとは明治新政府への出仕を断って帰藩、藩政改革や兵制整備に努めた。1871年(明治1)、45歳の隆盛は新政府の再三にわたる懇願を受けて上京し、参議の列に加わる。薩摩、長州、土佐の3藩から兵を徴集して天皇直属の御親兵を編成した彼は、次いで廃藩置県の大鉈を振るった「藩」を「県」に変え、新政府が直接支配するという国家構造の大変革である。当然、既得権を失う旧大名や士族たちは反発したが、御親兵という武力と隆盛の存在により、速やかに遂行された。
岩倉具視らが欧米視察に出発すると、隆盛は参議筆頭として留守を預かる。そして、徴兵制、
学制発布、地租改正などの政策を次々と打ち出し、近代国家建設を力強くリードしていく。しかし1873年、隆盛は維新の大業を通じて無二の同志であった大久保利通と決裂し、政界を去った。ことの発端は、新政府からの国書を拒否した朝鮮への対応をめぐる議論だつた。武力による修好条約締結を主張した板垣退助ら参議に対し、隆盛は自らが全権大使として朝鮮におもむき、礼を尽くして国交をまとめるとカ説。しかし、欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通ら内治優先派の反対により、派遣は無期延期とされた。これに憤った隆盛は辞職、同調する参議4名、政治家・軍人・官僚数百名も次々に辞任するという異常事態を生んだ(明治六年の政変)。鹿児島に戻った隆盛は、銃隊学校、砲隊学校、幼年学校などからなる「私学校」を設立する。新政府はこれを私設軍隊および政治結社と見て、隆盛の影響下でなかば独立国と化した鹿児島県を警戒して密偵を放った。1877年2月、隆盛は新政府の動きに激した私学校生徒らに担がれる形で、西南戦争を起こす。隆盛は手紙の中で、この反乱は「義挙」であるとし、「勝敗を論ぜず」と記した。首謀者の引き渡しか全面戦争かという局面で、敗北の見えている戦を旧士族の青年たちとともに戦うことが隆盛の義であった。
1877年2月15日、薩摩軍は進撃を開始。2万数千人に膨れ上がった薩摩軍は、熊本城を包囲する。しかし攻城戦に手間取り、田原坂における激戦で近代化された新政府軍に敗北。同年9月24日、隆盛は鹿児島・城山で新政府軍に包囲され、大腿部に銃弾を受ける。行動をともにした薩摩藩士の別府晋介に「もう、ここらでよか」と告げ、東に向かって遥拝したのちに切腹して果てた。義に生き、義に殉じた生涯であった。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
朝鮮の開国
1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策を続ける朝鮮にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実権者大院君(1820〜98, 国王高宗(朝鮮)の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否した。やがて明治維新後の日本政府も、朝鮮に対して開国を要求するようになった。そこでの西郷隆盛(1822〜77)、板垣退助(1837〜1919)らの征韓論はひとまず退けられた。1875年におきた江華島事件を契機に、日本政府は、朝鮮に強い圧力をかけ、翌76年、釜山・仁川・元山の3港の開港のほか、領事裁判権や日本側に一方的な無関税特権など、不平等条項を含む日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。