足利義政( A.D.1436〜B.C.1490)
足利義政は、室町幕府第8代征夷大将軍(在位1449年 - 1473年)。続発する飢饉や土一揆への無策、応仁の乱への傍観など失策の連続で乱世を招いた。一方、芸術・文化へ傾倒し、東山山荘を造営した。現在の日本文化の源流となる「東山文化」として結実した。
足利義政
戦乱の世に生まれた東山文化が花開く
京を焼亡させた無策無道の世捨て人将軍
「前管領畠山政長殿、兵数百をもって、上御霊社に布陣!」
1467年(応仁1)1月17日払暁、数年にわたり家督を争っていた管領家の畠山政長、畠山義就の両軍が、ついに洛中で激突した。戦闘はその後、両軍の後ろ盾であった幕府の二大巨頭、細川勝元と山名宗全の全面戦争に発展する。応仁の乱の勃発である。
このとき、乱の鎮静化を担うべき将軍・足利義政は、積極的な収拾策を講じることもなく、傍観視する。むしろ、以前から続いていた政治からの逃避が強まり、「栄華風流」の世界に耽溺するのみだった。当時の貴族の日記には、洛中最大の戦闘となつた相国寺合戦の最中、平然と御所に籠もり、側近と華やかな酒宴を繰り広げていた義政の記録が残る。「暗愚の将軍」、「史上最低の将軍」など後世与えられた不名誉な称号が、彼の政治能力のすべてであった。
義政は六代将軍足利義教の子だが兄・足利義勝がいたため、将軍になる立場ではなかった。ところが義勝が夭折、思いがけず将軍の地位に就く。
当初、義政は管領・畠山持国らの補佐もあり政治への意欲を見せていた。しかし乳母・側室であつた今参局、妻・日野富子とその一族らの干渉により幕政は意のままにならず、政治への意欲を失ってしまう。
さらに幕府財政の窮乏や寛正の大飢饉の惨禍を顧みず、寺社詣や酒宴にあけくれた。将軍不在のような状況に陥った幕府は、細川、山名など有力守護大名の露骨な勢力争いの場と化す。政治を放棄した義政は、有力守護にとって、勢力拡大のために利用される愧儡となっていったのである。
義政と富子には男子が誕生しなかった。そこで、僧籍に入っていた弟・足利義視を還俗させ後嗣に指名した。しかし、その翌年、皮肉にも富子が足利義尚を産み、将軍継嗣争いが勃発し、応仁の乱へと発展していった。
1483年(文明15)、義政は京の東山に完成した山荘に移り住む。山荘には当代一流の文化人が集まった。狩野派の始祖となる狩野正信、わび茶の村田珠光、華道・立阿弥の立花による書院飾り。
政治家として失格したのとはうらはらに、現実から身を遮断した芸術の世界が、以後の日本文化全般に大きな影響を及ぼしていったのである。
略年表
- 1436年 6代将軍足利義教の子として生まれる
- 1449年 征夷大将軍に就任
- 1464年 弟・足利義視を選俗させ、将軍後嗣とする
- 1465年 長男・足利義尚誕生
- 1467年 応仁の乱勃発
- 1473年 将軍職を義尚に譲る
- 1483年 東山に移り住み、翌々年出家
- 1490年 東山で死去
相国寺(京都市)には義政の墓がある。
兄弟
足利義勝、足利政知、義政、足利義視
東山文化を今に伝える慈照寺
銀閣:祖父・足利義満あしかがよしみつの北山第にならい、1489年に義政が建立した東山第の遺構。瀟湘八景の意匠の庭園は相阿弥による東山文化を代表する名園として知られる。世界遺産(京都市左京区)
善阿弥
足利義政は生涯を通して「築庭」に情熱を注いだ。それを担当したのが、庭師・善阿弥である。
善阿弥は「河原者」という蔑視される階級に属していたが、義政はその才能を愛し、破格の待遇を与えた。重病に陥ったときは薬を贈ったばかりか、高僧に命じて回復の祈願をおこなっている。
善阿弥も義政の期待に応え、相国寺山内の睡隠軒や蔭涼軒の庭など、その意にかなう仕事を実現していく。義政は、自身の築庭の集大成というべき東山山荘完成の直前、病により没した。銀閣の庭園は善阿弥の子の二郎と三郎、孫の又四郎によって作庭されたという。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
同時代の人物
ラファエロ・サンティ(1483〜1520)
イタリアの画家。破綻のほとんど見られない作品を描き、その後のヨーロッパ絵画の手本となった画家。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並ぶ盛期ルネサンスの三大巨匠のひとり。