運慶 うんけい (生年不詳〜1223)
鎌倉時代を代表する仏師。兄弟弟子の快慶、長子の湛慶ら運慶一門の慶派は奈良に住んで南都仏師・奈良仏師と呼ばれた。定朝手法のみでなく、奈良時代の彫刻や宋の様式を取り入れ、写実的で力強い作品を創造した。北条時政・和田義盛ら東国の有力武士の求めに応じて仏像(伊豆願成就院、三浦の浄楽寺)を作成し、運慶と快慶の合作になる東大寺金剛力士立像や、運慶が慶派の仏師を率いてつくった興福寺北円堂無著菩薩立像・世親菩薩立像などが代表作。当時、仏師の主流は京都の円派・院派の人々であったが、慶派が東大寺再建の仏像の作成にあたった。
運慶
躍動する仏像美「鎌倉ルネサンス」の両輪
奈良焼き討ちと慶派の台頭
1180年(治承4) 12月、奈良は炎に包まれた。同年8月の源頼朝挙兵を受け、源氏と奈良寺社勢の結びつきを懸念した平清盛が、子の重衡に焼き討ちを命じたのである。焼け落ちる東大寺を、呆然と見上げる仏師の一群の中に、運慶と快慶はいた。ともに30代前半の頃である。
運慶・快慶は奈良の慶派(南都派)の仏師として、運慶の父・康慶のもとで腕を競い合った。当時は京の円派・院派が主流を占め、慶派は不遇であった。運慶たちが彼らにライバル心をもっていたことは想像に難くない。とはいえ、奈良・円成寺には運慶最初の作と伝わる大日如来坐像がある。作成されたのは1176年(安元2)。平清盛が太政大臣となり栄華をほしいままにしていた時代だ。仏教彫刻における「ルネサンス」。その担い手となったのが、運慶と快慶だった。
武者の世と東大寺金剛力士像
1185年(寿永4 ・文治1)平氏は壇の浦に滅亡した。時代は源頼朝を旗頭とする、東国武士の世となった。新たな支配者の登場に呼応するかのように、慶派はその最盛期を迎える。
奈良の諸寺の復興は、運慶・快慶にとっては新たな様式を生み出すチャンスであったし、また武士の世となり、貴族や宮廷に所属していた円派・院派の勢いも鈍っていた。力強く躍動感溢れる作風の運慶、均整のとれた優雅な作風の快慶。ふたりは車の両輪のように支え合い、慶派の名は高まっていった。
そして1193年(建久4)、鎌倉幕府将軍・源頼朝は、東大寺再建を計画。4年後、慶派仏師に東大寺の仏像制作を依頼する。運慶。快慶が東大寺炎上を目の当たりにしてから、15年以上が過ぎ去っていた。
依頼から約1年、運慶・快慶は、大仏殿を飾る仏像6体(のちに焼失)を完成させる。次いで1203年(建仁3)、南大門の金剛力士立像2体の制作に取りかかった。制作開始からわずか69日で完成したと伝えられる阿行・咋行2体の巨大な金剛力士立像は、今も南大門に立つ。その迫真の肉体美と強く訴えかける表情は、鎌倉という新時代に生きた運慶・快慶の熱情を伝える。
その後もふたりは、奈良・鎌倉を中心に活躍。仏教美術史上、類のない業績を残している。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
鎌倉文化
芸術の新傾向
彫刻
東大寺再建に際して腕をふるったのが、高名な運慶(?〜1223)・快慶(生没年不詳 運慶の兄弟弟子)・湛慶(1173〜1256 運慶の長子)らと、その一派の慶派である。運慶一門は平安時代の定朝の流れをくみ、奈良に住んで南都仏師・奈良仏師と呼ばれた。定朝の手法のみでなく、奈良時代の彫刻や宋(王朝)の様式を取り入れ、写実的で力強い作品を創造した。運慶と快慶の合作になる東大寺金剛力士立像や、運慶が慶派の仏師を率いてつくった興福寺北円堂無著・世親像などが代表作である。運慶は以前から北条時政・和田義盛ら東国の有力武士の求めに応じて仏像(伊豆願成就院、三浦の浄楽寺)を作成しているし、東大寺再建には幕府が多大な援助をしている。当時、仏師の主流は京都の円派・院派の人々であったが、彼らでなく慶派が東大寺の仏像の作成にあたったのは、あるいは幕府の推挙を受けた結果かもしれない。さらに推測すると、運慶が定朝様の優美さから写実性へ歩を進めるに際しては、武士との交流が一定の意味を有したのではないか。
鎌倉時代は前代に比して個性を重視するようになったらしく、写実的な肖像彫刻に傑作が多い。六波羅蜜寺空也上人像(運慶の子の康勝作)、東大寺俊乗堂の重源上人坐像、鎌倉明月院上杉重房像などがある。いずれも豊かな人間味をたたえた作品であると評されている。
参考 詳説日本史研究
ギャラリー
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