那智参詣曼荼羅
熊野信仰の聖地である熊野那智山を描いた社寺参詣曼荼羅。江戸時代に絵描かれた図だが、熊野参詣が盛んであったことが想像される。左上に上皇の経供養の様子が描かれている。
那智参詣曼荼羅
主として16世紀から17世紀にかけて、霊場(神社・寺院)へ参詣者を勧誘する目的をもって作製された一群の絵図を、社寺参詣曼荼羅と総称する。
熊野那智大社の社殿および境内地は、『紀伊山地の霊場と参詣道』として登録されている。
参考 Wikipedia
中世社会の成立
院政と平氏の台頭
院政の開始
白河上皇は仏教をあつく信仰し、出家して法皇となり、多くの大寺院や堂塔・仏像をつくり、しばしば紀伊の熊野詣でや高野詣を繰り返し、盛大な法会を行なった。なかでも「国王の氏寺」と称された法勝寺は、京の東の白河に建立され、その九重塔は上皇の権威を象徴するものとなった。この法勝寺ののち、堀河天皇の建立した尊勝寺など、院政期に天皇家の手で造営された「勝」の字のつく6寺は六勝寺と称されている。六勝寺は院の仏法による支配を象徴するものであった。
保元・平治の乱
院政を始めた後白河上皇の近臣間の対立が激しくなり、1159(平治元)年には、平清盛と結ぶ通憲に反感をもった近臣の一人藤原信頼が源義朝と結び、平清盛が熊野詣にきかけている留守をねらって兵をあげ、通憲を自殺させた。だが武力に勝る清盛は、京都の六波羅邸に帰還すると、藤原信頼らを滅ぼし、東国に逃れる途中の源義朝を討ち、その子の源頼朝を捕らえて伊豆に流した。これが平治の乱である。
院政期の文化
従来の物語を絵巻に表現したものも多くつくられた。優美な『源氏物語絵巻』はその代表的な作品であるが、そうした貴族的な作品にも武士や庶民の影響がしだいに現れていった。それは、法華経の信仰とともに広く行われた写経にみられる。上皇や貴族による高野山・熊野三山・観音霊場などの霊場参詣が盛んになって、その際に写経が納められたが、中でも上皇による熊野詣では毎年のように行われた。写経の作品では、四天王寺の『扇面古写経』の下絵には、京都や地方の社会、庶民の生活がみごとに描かれており、安芸の厳島神社の豪華な『平家納経』は、平氏がこの神社をあつく信仰したことから、清盛が一門に語らって納めたものであり、平氏の栄華と同時にその貴族性を物語っている。
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