長屋王 A.D.684〜A.D.729
飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿。天武天皇の孫。高市皇子の長男。宮内卿・式部卿・大納言・右大臣・左大臣などを歴任。養老7年「三世一身の法」を施行し、律令制の維持をはかる。皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した(長屋王の変)。和歌が「万葉集」に5首、漢詩が「懐風藻」にのこる。
長屋王
天武天皇の孫、藤原氏の策略に死す
皇族の代表として政権の中枢に
729年(神亀6)、藤原宇合率いる軍勢が長屋王の邸宅を囲んだ。王とともに膳夫王ら4人の子供たちと、妃の吉備内親王も自害して果てた。世にいう長屋王の変である。
長屋王は天武天皇の孫である。藤原不比等の死後、左大臣に就任し、太政官の首班となった。一方、藤原不比等の子、藤原武智麻呂や藤原宇合ら四子も政権の中枢ヘ進出。天皇との外戚関係を利用して権力を握ろうとする藤原氏と長屋王の対立が鮮明になるのも時間の問題だった。
聖武天皇の妃で藤原四子の妹でもある光明子が天皇との間に基王を産み、生後まもなく立太子された。藤原氏の権勢は約束されたはずだった。しかし、基は1年もたたずに亡くなってしまう。このままでは外戚関係が途絶えてしまうと焦った藤原氏は、ライバルの長屋王の失脚を画策する。長屋王が基王を呪誼し、国家を傾けようとしたと密告。長屋王が無実の罪を着せられたことは『続日本紀』に記されている。
長屋王と争った藤原四子
藤原南家の祖
藤原武智麻呂
680~ 737年
藤原不比等の長男。長屋主の変の1か月後に大納言に就任し、その後左大臣まで昇進、聖武天皇の政務を助けた。
藤原北家の祖
藤原房前
681~ 737年
兄・武智麻呂のために出世は遅れ、死後太政大臣が追贈された。四子の中では一番の政治力の持ち主だったという。
藤原式家の祖
藤原宇合
?~ 737年
遣唐副として使入唐経験をもち、長屋王政権下では蝦夷を平定するなど活躍。長屋工の変で王邸を囲んだ。
藤原京家の祖
藤原麻呂
695~ 737年
先の3人の異母弟で、天武天皇の皇子である新田部親王の異父弟。『懐風藻』『万業築』に収められる歌人でもある。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
律令国家の形成
平城京の時代
藤原氏の進出と政界の動揺
皇位継承をめぐって、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人に入れて生まれた皇子(聖武天皇)の即位をはかり、娘の光明子をも聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏との密接な結びつきを築いた。不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟も、次第に政界に重きを占めるようになって行った。この4兄弟は、それぞれのちの藤原氏の南家・北家・式家・京家の家計の祖となった。
720(養老4)年に不比等が死ぬと、壬申の乱で活躍した高市皇子(天武天皇の皇子)の子の長屋王が政界の首班となったが、聖武天皇の次の皇位継承に不安を感じた藤原4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣の長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てて天皇との結びつきを強めることに成功した。
長屋王の変
長屋王は、天武天皇の子で壬申の乱で活躍した高市皇子を父とし、天智天皇の娘の内親王を母とし、妻には吉備内親王を迎えるという尊貴な血筋をもつ皇族であり、藤原不比等も娘を王に嫁がせていた。順調に昇進して、不比等が死ぬと政界の首班となり、正二位左大臣まで昇った。
しかし729(天平元)年、突然密告を受けて兵に邸宅を囲まれ、自刃させられた(長屋王の変)。
同時に吉備内親王及び同内親王との間にもうけた王子たちが自殺させられたが、他の関係者はほとんど許されている。『続日本紀』では密告を偽りともしていることから、この事件は王邸を囲んだ側の中心であり、変後の政界に進出した藤原4兄弟により仕組まれた事件であったと考えられている。
事件の背景としては、聖武天皇と藤原光明子との間に生まれた親王が早逝し、一方で県犬養氏出身の夫人に聖武の親王が生まれたことから、次の皇位継承をめぐって藤原氏に危機感が生じたこと、それに対応して光明子を皇后に立てようとすると長屋王が邪魔になるということがあった。
変の直後、武智麻呂は大納言に昇り、そして光明子は聖武天皇の皇后となり、藤原氏は大きな権威を獲得したのだった。
皇后は、律令では皇族であることが条件とされており、天皇亡きあとに臨時に執政したり、女性天皇としての即位もあり得、また皇位継承への発言権を持てる立場であったのである。
こうして長屋王にかわって、新たに大納言となった藤原武智麻呂ら藤原4兄弟が光明皇后を押し立てて力をふるう時代がきた。
しかし、737(天平9)年に九州から全国に広がって流行した天然痘によって、藤原4兄弟は相次いで死去し、藤原氏の勢力は一時後退した。
平城京と地方社会
長屋王邸宅と長屋王家木簡
平城京左京三条二坊の一・二・七・八の四坪(6万㎡)という広大な敷地を占める奈良時代前期の貴族邸宅跡が、発掘調査によって明らかにされた。
全体を築地土塀で囲まれた邸宅内は、掘立柱塀に囲まれた中に大規模な中心建物が建つ内郭を中心に、住居、家政機関、雑舎・倉庫などの地区に区画され、整然と建物群が並んでいた。そして邸内から出土した3万5000点にのぼる大量の木簡から、奈良時代前期の皇族政治家、長屋王がここに住んでいたことがわかった。長屋王の変(729年)で長屋王が死ぬと邸宅は転用されていくが、長屋王家木簡によって、王家の日常生活や家政機関の運営、そこに働くさまざまな職種の人々、王家を支えた経済的基盤などの実態を生き生きと知ることができた。
長屋王邸の生活
長屋王についての文献史料や長屋王家木簡によって、王たち上級貴族の生活の様子が垣間見えてくる。住生活については、平城京左京三条二坊の長屋王邸宅の発掘調査の成果で概観することができる。広い邸内が、公的・儀礼的な中心建物の空間、長屋王や夫人たちの住居のある私的生活空間、家政を支える家政機関の空間、多くの職人・雇人らの職場ともなる雑舎・倉庫などの空間に区画されていることが注目される。『懐風藻』には、左京三条二坊とは別の長屋王の佐保宅でよく行われた宴会の時の漢詩が多く載っているが、それによれば、園池や梅の木のある庭園に面した建物で饗宴があり、楽曲が演奏され舞が演じられる中で美酒が振る舞われ、外国使節を迎えて漢詩を贈答して交流をはかるようなこともあった。宴では和歌も詠まれており、『万葉集』には聖武天皇が長屋王邸内の建物をほめた歌がみられる。
食生活の面では、夏に氷室から氷を運ばせていたことや、牛乳を運ばせ、煮詰めてチーズをつくっていたことなどが長屋王家木簡にみえる。また邸内では、馬のほかに犬や鶴などの生き物を飼っていた。
長屋王が仏教をあつく信仰したことは、大般若経600巻の書写という文化活動を2度行ったことが、今日に伝わる長屋王願経によって知られるほか、長屋王家木簡によって、邸内に僧尼がいたことや、写経とも関係深い書法模人・帙師・絵師などの職人たちが邸内で働いていたことが明らかになった。
万葉集と文学
奈良時代の貴族や官人には漢詩文を作ることが教養として求められたが、そうした背景のうえに、751(天平勝宝3)年には現存最古の漢詩集『懐風藻』が編まれている。
7世紀の天智天皇時代以来、大友皇子をはじめ大津皇子・長屋王らの漢詩作品が収められている。漢詩文を残した文人としては、淡海三船や石上宅嗣らが知られている。石上宅嗣は自邸を寺とし、仏典以外の書物も蔵する今日の図書館のような施設をおいて芸亭と名付け、学問する人々に開放したという。
系図
天武天皇の長男・高市皇子と、天智天皇の皇女であり元明天皇の同母姉、持統天皇の異母妹でもある御名部皇女の間に生まれる。
長屋王が登場する作品
同時代の人物
安禄山
唐代のソグド系の蕃将。大燕国初代皇帝(在位756年 - 757年)。 玄宗(唐)の寵臣のひとりで北辺の3節度使(范陽・平盧・河東)を兼任した。楊貴妃の一族である宰相の楊国忠と対立し、755年、楊国忠打倒を掲げて挙兵し、洛陽・長安をおとしいれ、大燕皇帝と自称するにいたった。最後は次子の安慶緒に殺害された。