雲崗石窟
中国山西省の「雲崗石窟」には、1㎞の断崖に刻まれた252の石窟と5万1,000体あまりの仏像がある。これらは中国における初期仏教芸術の傑作とされ、敦煌の莫高窟と龍門石窟とともに中国3大石窟のひとつに数えられている。
雲崗石窟
華北西部、山西省北部、大同市の西15kmに位置する全長約1kmにおよぶ仏教石窟群。5~6世紀の中国仏教石窟芸術の頂点を示す大窟21、中窟20を含めた252もの石窟と5万1000点余の彫像を今なお残している。厳密な様式とデザインの統一性を示す曇曜作の第5窟は、中国芸術最初の古典的傑作。第20窟の本尊は、今は失われたバーミヤンの大仏を彷彿させる。曇曜五窟といわれる第16~20窟が著名であり、第19窟は最大の石窟。
参考 UNESCO World Heritage Centre
北魏時代に花開いた仏教芸術を伝える石窟寺院
中国山西省の「雲崗石窟」には、1㎞の断崖に刻まれた252の石窟と5万1,000体あまりの仏像がある。これらは中国における初期仏教芸術の傑作とされ、敦煌の莫高窟と龍門石窟とともに中国3大石窟のひとつに数えられている。
452年に即位した北魏の文成帝は、皇帝と釈迦を同一視させることで皇帝の権威を高めようと試み「曇曜五窟」と呼ばれる5つの石窟に自身を含む5人の皇帝を模した大仏を建立した。しかし494年の洛陽遷都をきっかけに、石窟の存在は忘れ去られていった。1902年に日本人建築家の伊東忠太が石窟を発見し、再び脚光を浴びた。
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概要
元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などとも呼ばれる。
北魏の沙門統である曇曜が文成帝(北魏)に上奏して460年頃に、桑乾河の支流の武周川の断崖に開いた所謂「曇曜五窟」 (第16窟、第17窟、第18窟、第19窟、第20窟) に始まる。
三武一宗の廃仏の第一回、太武帝(北魏)の廃仏の後を受けた仏教復興事業のシンボル的存在が、この5窟の巨大な石仏であった。
その後も、第1・2窟、第3窟、第5・6窟、第7・8窟、第9・10窟、第11・12・13窟と大規模な石窟の造営が続けられ、雲岡期(460年-494年)と呼ばれる中国仏教彫刻史上の一時期を形成した。
様式は、最初期の「曇曜五窟」には、ガンダーラやグプタ朝の様式の影響が色濃い。その後の石窟ではギリシア様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も凝らされており、当時の建築様式を模した装飾も豊富に見られる。しかし、洛陽へ遷都する494年以降の末期になると、初期の雄大な質感は姿を消し華奢で力強さの感じられない造形が増加する傾向が顕著となる。そして、この傾向の延長線上に、続く龍門期が待ち受けている。
また、その影響関係で言えば、雲岡の様式は涼州 (甘粛省) の石窟にその淵源を持つとも考えられるが、雲岡の影響は龍門・天龍山・南北の響堂山などの広範囲な石窟寺院に及んでいる。