高杉晋作
高杉晋作(国立国会図書館蔵/近代日本人の肖像

高杉晋作


高杉晋作 たかすぎしんさく( A.D.1839〜A.D.1867)

長州藩士。松下村塾に学び、尊攘運動で活躍してイギリス公使館を焼き討ちした。1863年に奇兵隊を組織し、第一次長州征討後に下関で挙兵。藩の主導権を保守派から奪い、藩論を倒幕に転じさせた。第二次長州征討の時、同隊を率いて抵抗したが、維新の成就を見ることなく病死。

高杉晋作

長州藩士。松下村塾に学び、尊攘運動で活躍してイギリス公使館を焼き討ちした。1863年に奇兵隊を組織し、第一次長州征討後に下関で挙兵。藩の主導権を保守派から奪い、藩論を倒幕に転じさせた。第二次長州征討の時、同隊を率いて抵抗したが、病死。

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攘夷の先駆けとなり、奇兵隊を創設した風雲児

清国視察で危機感を抱き志願者制の奇兵隊創設

松下村塾の同門である伊藤博文は、高杉晋作顕彰碑文けんしょうひぶんを書いて「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し」と讃えた。その言葉どおり、短く振り幅の大きい生涯を駆け抜けた晋作は、まさに幕末随一の奇才というべきだろう。1839年(天保10)、晋作は長州の中級武士の高杉小忠太の長男として萩城下に生まれた。長じて藩校の明倫館めいりんかんに入学したものの旧弊な校風にあきたらなくなった晋作は、松下村塾に入門。吉田松陰が教える実学に打ち込み、頭角を現わしていった。その後の江戸遊学や諸国遊歴により晋作はさらに学識を深め、国家単位の政治について考えるようになる。晋作は1862年(文久2)に幕府使節随行員として上海に渡った。欧米によって半植民地化された清国の姿に衝撃を受けた晋作は、外国を排除するため日本は力をもつべきだと痛感。帰国後は、イギリス公使館焼き討ちイギリス公使館焼打ち事件)などの過激な尊攘活動に傾倒していく。翌年、長州藩は攘夷の先駆けとなるべく外国船砲撃を行うが、米仏艦隊の報復攻撃に遭い、みじめな敗北を喫した。藩主の毛利敬親もうりたかちかから軍備立て直しについて諮問を受けた晋作は志願兵による部隊創立を提案し、下関防備を任されて奇兵隊の結成に着手する。武士のみならず農民や町人の人隊も認められたため、奇兵隊は日本初の近代的な民兵組織となった。初代総督となると、厳しい軍律をもうけ、隊士たちに西洋式の訓練をほどこす。洋風の軍服に身を包み、新式小銃や大砲の扱いに習熟した奇兵隊は、長州の軍事力を大きく向上させた。長州では以後、遊撃隊、義勇隊などの民兵組織が次々とつくられた。

松蔭の教え:松蔭は晋作に死生観を問われて、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」と答えた。晋作は師の教えに従い、戦火に身を投じていく。

功山寺決起で藩政奪取 維新成就を前に倒れる

禁門の変で朝敵となり、幕府による第一次長州征伐が迫る中、藩内では幕府への謝罪を主張する恭順派が台頭する。晋作は一時脱藩し、下関の功山寺こうざんじで兵を挙げ、恭順派を武力で追放して倒幕派による政権を樹立した。1866年(慶応2)、幕府と長州の交渉が決裂し、第二次長州征伐が開始された。晋作は海軍総督に任じられ、幕府の戦艦に夜襲をかけ周防大島すおうおおしまを奪還するなどの大活躍を演じた。第二次長州征伐は14代将軍家茂の死去もあり、長州の実質勝利で幕を閉じる。しかし晋作は、肺結核のため療養生活に入る。幕末の動乱を駆け抜けた晋作の辞世は、

おもしろきこともなき世に
おもしろく
住みなすものは心なりけり

であった。翌年4月、維新の成就を見ることなく29歳の若さで世を去った。

高い買い物:長崎で英国軍艦を見た晋作は、独断で購入契約を結ぶ。藩首脳は激怒したが、木戸孝允らの説得により約4万両で買い取った。読みどおり、この軍艦は幕府との戦争で威力を発揮した。

近代国家の成立

開国と幕末の動乱

開港とその影響

金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため、外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得ようとした。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判まんえんこばんを鋳造してこの事態を防ごうとしたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫された。そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因となった。そして、外国人を襲う事件が相つぎ、1860(万延元)年、ハリスの通訳であったオランダ人ヒュースケン(Heusken, 1832〜61)が江戸の三田で薩摩藩の浪士に斬り殺され、さらに翌年、高輪東禅寺のイギリス仮公使館が水戸脱藩士の襲撃を受け館員が負傷した東禅寺事件、1862(文久2)年には、神奈川宿に近い生麦村で、江戸から帰る途中の島津久光しまづひさみつ(1817〜87)の行列の前を横切ったイギリス人を薩摩藩士が斬った生麦事件、さらに同じ年の暮れ、品川御殿山に建設中のイギリス公使館を高杉晋作(1839〜67)·久坂玄瑞くさかげんずい(1840〜64)らが襲って焼いたイギリス公使館焼打ち事件などがおこっている。生麦事件は、のちに薩英戦争の原因となった。1861(文久元)年には、ロシア軍艦ポサドニック号が対馬に停泊し、租借地を要求する対馬占拠事件がおこった。対馬の半植民地化の危機に島民が激しく抵抗し、イギリスの抗議もありロシアは退去した。

倒幕運動の展開

いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允、1833〜77)らは、幕府にしたがおうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商·豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていった。

長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。

1866(慶応2)年には、土佐藩出身の坂本竜馬(1835〜67)・中岡慎太郎(1838〜67)らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允きどたかよしらが相互援助の密約を結び(薩長連合)、反幕府の態度を固めた。幕府は6月に攻撃を開始したが、長州藩領へ攻め込むことができず、逆に小倉城こくらじょうが長州軍により包囲され落城するなど戦況は不利に展開し、幕府はまもなく大坂城中で出陣中の将軍家茂が急死したことを理由に戦闘を中止した。また、この年の12月に孝明天皇が急死したことは、天皇が強固な攘夷主義者ではあったが公武合体論者でもあったので、幕府にとっては大きな痛手となった。

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