黄巾の乱
後漢滅亡の契機となった農民反乱。北方民族に対する軍事行動再開のための外征費用の負担に加え、184年の干ばつが重なり、張角が貧窮農民を率いておこした。反乱は20年間続き、漢の権威を失墜させた。
黄巾の乱
後漢滅亡の契機となった農民反乱。張角が184年(中国では変乱の年と考えられたいた甲子の年にあたる)に、貧窮農民を率いておこした反乱で、華北一帯に波及した。農民は彼らの信奉する神を象徴する黄色の頭巾をまいて参加したのでこの名がある。反乱は各地に飛び火し、各地の豪族が自立して、後漢の滅亡が決定的となった。
漢王朝は北方の民族に対する軍事行動を再開した。外征の費用の負担に184年の干ばつが重なり、貧困と飢餓が国内に広がった。大規模な農民の反乱が東部と中部の各地で発生する中で、太平道の信者が勢力を増し黄巾の乱を起こした。反乱は20年間続き、漢の権威を失墜させた。
後漢の整理力衰退を露呈させた黄巾の乱
黄巾賊 VS 後漢政府
黄巾の乱タイムテーブル
- 184年未明:太平道首脳部で信徒数万を集め、3月5日に挙兵する計画が立てられる。張角の弟子・唐周により、反乱の計画が政府に密告される。政府により信徒の捕縛、処刑が行われる。
- 2月:事が露見したことを知った張角ら黄巾賊は各地で一斉に蜂起。緒戦で善戦する。
- 3月:皇甫嵩、朱儁ら討伐に向かう
- 11月:張宝、皇甫嵩に討たれる(すでに張角は病死、張梁も討たれていた)
- 12月:黄巾の乱、一応の鎮圧をみる
後漢末、幼帝が続いたことから、宮廷内部の権力争いが激化、外戚や宦官、官僚の力が増大した。反対する者らは弾圧され、政治は荒れた。地方では、豪族が勢力をふるって農民を圧迫。農民の反乱が相次いでいた。
そんな184年、黄巾の乱が勃発する。宗教結社太平道の始祖張角が、弟の張宝、張梁らとともに、農民を中心とする信徒を指揮して武装蜂起したのだ。太平道は犯した過ちを告白させ、呪符と霊水で病を治し、信徒を急速に増やしていた。また、彼らは黄色の布を頭に巻いていたことから「黄巾賊」と呼ばれる。陰陽五行説による宇宙を支配する5つの要素、木・火・土・金・水にのっとり、火徳の王朝・漢(色は赤)に代わって、火の次にくる土徳(色は黄)の王朝の出現を願い、黄色の頭巾をかぶったという。呼応する者が全国で相次ぎ、各地を制圧。首都に迫る勢いだった。
後漢政府は才知人望高き将、皇甫嵩らを起用したり、黄巾討伐のための義勇兵を募るなどして応戦。孫堅、劉備、曹操らもこの義勇軍に参加し、手柄を立てている。
すでに指導者張角は病死、皇甫嵩の策で張宝、張梁も討たれると、黄巾賊の結集は乱れ、乱は蜂起から1年経たずして鎮圧された。
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2世紀に入ると、後漢では幼帝が続き、外戚や宦官が政治の実権を握るようになった。これに反対する儒教の教養を身につけた官僚や学者は、宦官によって弾圧され(党錮の禁, 166・169)、国政は乱れた。また地方では豪族が勢力をふるって農民を圧迫した。重税と豪族の圧迫に苦しんだ農民は、各地でしばしば反乱をおこした。とりわけ184年に華北一帯に広がった大農民反乱である黄巾の乱を契機として、群雄割拠の時代となり、後漢政府の支配力は完全に失われた。やがて後漢は、群雄のなかでもっとも有力であった曹操の子曹丕によって滅ぼされた(220)。
黄巾の乱
後漢の中ごろからおこった外戚・宦官・豪族の勢力の増大および大土地所有者の進行などによって、農民の生活は窮乏し各地で農民反乱が続いた。そのなかで最大のものが、184年におきた黄巾の乱である。
これは、太平道という宗教結社を始めた張角が指導したもので、黄色の布を頭に巻いたことから「黄巾の賊」と呼ばれた。後漢の政府は、この反乱を容易に鎮圧できず、豪族の協力をえて同年末までに主力を撃破することができたが、これに呼応した反乱はこのあとも各地で相次いだ。こののち政府の命令は行き渡らず、群雄割拠の時代となった。
戦闘情報
戦争:黄巾の乱
年月日:184年
場所:中国全土
結果:後漢の勝利
交戦勢力: 後漢 対 太平道勢力他