黒田内閣( A.D.1840〜A.D.1889)
黒田清隆を首相とする薩長藩閥内閣。1889年の憲法発布にあたり、超然主義を宣言。大隈外相が条約改正問題で負傷したことで総辞職した。
超然主義:政党の動向に左右されず、超然として公正な政策を行うとする政府の政治姿勢。憲法発布翌日の2月12日、首相黒田清隆が政党政治を拒む考えを表明した。
黒田内閣
黒田清隆を首相とする薩長藩閥内閣。1889年の憲法発布にあたり、超然主義を宣言。大隈外相が条約改正問題で負傷したことで総辞職した。
超然主義:政党の動向に左右されず、超然として公正な政策を行うとする政府の政治姿勢。憲法発布翌日の2月12日、首相黒田清隆が政党政治を拒む考えを表明した。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
条約改正
ついで外相となった大隈重信は、列国間の対立を利用して国別に交渉を進める方式を取り、税率に関しては井上案同様、法権に関しては外国人判事任用を大審院に限ることとして、まず1888(明冶21)年にはメキシコとの間の条約締結に成功した。ところが翌年、改正案の内容がロンドンのタイムス紙上に暴露されると、日本国内には外国人判事任用は憲法違反だと攻撃する声が高まり、民権派と国権派は共同して反対運動を展開し、1889(明治22)年10月、大隈は九州の国権主義の結社である玄洋社の活動家に爆弾を投じられて重傷を負い、ときの黒田内閣は総辞職して条約改正交渉は失敗に終わった。あとを受けた外相青木周蔵(1844〜1914)は関税協定制・法権回復の案をもってイギリスと交渉にあたった。多少の難色を示しながらイギリスが同意に傾いていったとき、突然、大津事件がおこり、青木は引責辞職して交渉はまたもや中断された。