イサベル1世(カスティーリャ女王)
イサベル1世(カスティーリャ女王)(プラド美術館蔵) ©Public Domain

イサベル1世(カスティーリャ女王)


イサベル1世(カスティーリャ女王)( A.D.1451〜A.D.1504)

異端審問所を開設し、宗教統一を図るとともに、法律・行政・税制を整備し王権を強化。コロンブスの新航路発見を援助し、スペイン大航海時代の幕開けを飾った。これが中世から近世への転換期になった。

イサベル1世(カスティーリャ女王)

周囲の画策をはねのけ夫とともにスペインを統一

スペインの女傑イサベル1世(カスティーリャ女王)の、即位までの道のりは複雑だった。父王の死で、異母兄エンリケ4世(カスティーリャ王)が王位を継承すると反エンリケ派が反発。イサベルの実弟アルフォンソ・デ・カスティーリャ王子が11歳になったとき、継承争いが起こる。だが王子の突然の死で、イサベルがかつぎ出された。エンリケ4世(カスティーリャ王)は、彼女をポルトガル王の後妻に据え、自分の娘を皇太子に嫁がせてカスティーリャとポルトガルとの併合を目論んだ。だがイサベルはいち早く、1歳年下のアラゴン王国王子フェルナンド(のちのフェルナンド2世)と婚約。怒ったエンリケ王は彼女を幽閉するが、フィアンセに援軍を頼み救出され、1469年、2人は結婚。エンリケ王の死後、イサベルはカスティーリャ女王に即位する。1479年、夫がアラゴン王になると、2国の統一となってスペイン王国が成立した。

イサベル1世(カスティーリャ女王)
グラナダ陥落(Francisco Pradilla Ortiz画/スペイン上院蔵)©Public Domain

1492年初め、南部に残っていたイスラーム国家グラナダが陥落。スペイン帝国が幕を開けた。

イザベル1世(カスティーリャ女王)
フェルナンド2世とイザベル1世の結婚式の肖像画 ©Public Domain

彼女は、夫とともに敬虔けいけんなカトリック信者だった。そのため、ふたりの治世は、カトリック両王時代とも呼ばれる。

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夫とスペインを共同統治

夫・フェルナンド5世(カスティーリャ王)(=フェルナンド2世(アラゴン王))とスペインを共同統治。異端審問所を開設し、宗教統一を図るとともに、法律・行政・税制を整備し王権を強化した。また、コロンブスの新航路発見を援助し、スペイン大航海時代の幕開けを飾った。これが中世から近世への転換期になった。

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ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容

スペインとポルトガル

13世紀初頭、カスティリャ・アラゴン・ナバラの連合軍はムラービト朝にとって代わったムワッヒド朝軍に決定的勝利をおさめ、コルドバ・セビリャを相次いで回復した。その結果13世紀半ばには、イスラーム勢力はグラナダ1国を残すのみとなった。ナスル朝グラナダ王国(1230〜1492)は、カスティリャ王国に貢納しながらも独立を保ち、集約的農業と交易により栄えた。学芸が保護され、アルハンブラ宮殿も建設された。

すでにカタルーニャ・バレンシアとの連合王国を形成していたアラゴン王国は、その後地中海に向けて発展、13世紀後半にシチリア島、14世紀にサルデーニャ島、そして15世紀前半にナポリ王国を征服して絶頂期に達したが、国内では貴族や都市との抗争に苦しんだ。

スペインとポルトガル 8〜13世紀レコンキスタ地図 ポルトガル王国
8〜13世紀レコンキスタ地図 ©世界の歴史まっぷ

一方、カスティリャ王国では14〜15世紀をつうじて王権が強化され、貴族との対立が激化した。また、小農経営を無視した牧羊業の推進と牧羊者組合(メスタ)の保護は農業の荒廃をもたらし、農民一揆や反ユダヤ暴動を引き起こした。
しかし、1469年アラゴン王子フェルナンド(フェルナンド2世(アラゴン王))とイサベル1世(カスティーリャ女王)が結婚、1479年には両国が統一されてスペイン王国が誕生すると、混乱は次第に収拾に向かった。
そして1492年、両国によりグラナダは陥落( 西方イスラーム世界)し、レコンキスタは終了した。同時にクリストファー・コロンブスによりアメリカ大陸への道が開かれ、スペインは西ヨーロッパの強国になっていく。

スペインとポルトガル – 世界の歴史まっぷ

近代ヨーロッパの成立

ヨーロッパ世界の拡大

新大陸の発見

1492年はコロンブス(1451〜1506)が大西洋を横切りインド諸島に到達、すなわちアメリカを「発見」した年である。カスティリャとアラゴンの結合により成立したスペインは、この年の1月、半島におけるイスラーム勢力最後の拠点グラダナを陥落させ、半島におけるレコンキスタ運動を完了させていた。これにひきついでイサベル1世(カスティーリャ女王)(位1474〜1504)は、コロンブスに支援を与えたのである。スペインの海外進出は、十字軍 スペインとポルトガル)的情熱で領土拡張をめざしたレコンキスタ運動が海外へと連続して拡大したものという見方もできる。

ジェノヴァ人の船乗りコロンブスは、トスカネリの地球球体説と西回り航路による東洋到達の可能性を信じ、大西洋横断の航海計画を立案し、ポルトガル、イギリスの王室にも後援を依頼していたが、こうした背景のなかでイサベルのスペイン宮廷の援助を取り付けることに成功したのである。

1492年8月、スペインのパロス港からサンタ・マリア号を旗艦とするコロンブスの3隻の船体が出港、カナリア諸島をへて、大西洋を西に進んだ。コロンブスの地図にはアメリカ大陸は存在せず、大西洋を横断すれば、インドや中国・日本に到達するはずであった。10月12日ついに陸地が発見された。これはサンサルバドル島、すなわち現在のバハマ諸島中のワトリング島とされるが、コロンブスはアジアの島のひとつと考え、キューバなど周辺の島々を探検した。コロンブスの「発見」はスペインのみならず全ヨーロッパを駆けめぐった。彼はその後1492年から1504年にわたり4度の航海で西インド諸島・パナマ沿岸を探検、南アメリカの陸地にも足を踏み入れている。コロンブスはあくまでこれらをインドの一部と考えていた。

コロンブスの「発見」にともない、1493年スペインはアレクサンデル6世(ローマ教皇)(位1492〜1503)に要請して、ヴェルデ岬西方560㎞の子午線の西側で発見される土地は全てスペイン領とするという教書をえた。しかしポルトガルがこれに抗議したので、両国は1494年トルデシリャス条約を結んで子午線をさらに150㎞西に移動し、その東側の発見地をポルトガル領とすることにした。両国による独占的な世界分割が勝手に取り決められたのである。

新大陸の発見 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

子女

夫フェルナンド2世(アラゴン王)との間に一男四女をもうけた。

  • イサベル・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1470年 – 1498年) – 1490年、ジョアン2世(ポルトガル王)の息子アフォンソ王太子と結婚するが、翌年死別し帰国。1497年マヌエル1世(ポルトガル王)と再婚し、男児(夭折)を出産後死亡。
  • フアン(アストゥリアス公)(1478年 – 1497年) – 唯一の男子だったが、フィリップ美公の妹マルグリット・ドートリッシュと結婚後間もなく夭折。
  • フアナ(カスティーリャ女王)(1479年 – 1555年) – 夫フェリペ1世(カスティーリャ王)の死後精神を病み、父により幽閉されるが、形式上カスティーリャ女王の地位についた。
  • マリア・デ・アラゴン・イ・カスティーリャ(1482年 – 1517年) – 姉イサベルの死後、マヌエル1世(ポルトガル王)の王妃となる。
  • キャサリン・オブ・アラゴン(1487年 – 1536年) – はじめイングランドのアーサー・テューダーと結婚。アーサーの死後、その弟ヘンリー8世(イングランド王)と再婚し、王妃となるが、後に離縁される。メアリー1世(イングランド女王)の母

参考 Wikipedia

同時代の人物

蓮如(1415〜1499)

浄土真宗の僧父・存如の後を継ぎ本願寺8代目の法主となる。異端を排除して浄土真宗開祖親鸞の教えをわかりやすく説き、衰退していた本願寺派を興隆させた。

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