オーストリア継承戦争 (シュレジエン戦争
A.D.1740〜A.D.1748)
オーストリア大公国(ハプスブルク家)の支配権継承をめぐって争われた国際戦争。オーストリアとプロイセンの対立を軸として、イギリスが前者を、フランス・スペインなどが後者を支援した絶対王政国家間の領土をめぐる戦争。
オーストリア継承戦争
戦争データ
年月日:1740年12月16日〜1748年10月18日 | |
場所:ヨーロッパ各地、北アメリカ、インド | |
結果:ドレスデン条約、アーヘンの和約(1748年) | |
交戦勢力 | |
フランス王国(ブルボン朝) プロイセン王国 バイエルン選帝侯領 ザクセン選帝侯領 スペイン帝国 ナポリ王国 ジェノヴァ共和国 スウェーデン王国 |
オーストリア大公国 グレートブリテン王国(ハノーヴァー朝) ハノーファー(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領) ネーデルラント連邦共和国 ザクセン選帝侯領 (1744-45) サルデーニャ王国 ロシア帝国(ロマノフ朝) |
指導者 | |
モーリス・ド・サックス フランソワ・マリー・ド・ブロイ メイユボア侯ジャン・バティスト・フランソワ フリードリヒ2世(プロイセン王) レオポルト1世(アンハルト=デッサウ侯) レオポルト2世(アンハルト=デッサウ侯) |
カール・アレクサンダー・フォン・ロートリンゲン ジョージ2世(イギリス王) ウィリアム・オーガスタス(カンバーランド公) ヴァルデック=ピルモント侯カール・アウグスト・フリードリヒ ルトフスキー伯フリードリヒ・アウグスト カルロ・エマヌエーレ3世 |
参考 Wikipedia
概要
1740~1748年オーストリアの支配権継承をめぐって争われた国際戦争。1740年カール6世(神聖ローマ皇帝)の没後、ドイツ諸侯やイギリス、オランダなど列国の承認を得た国事詔書に従い、その長女マリア・テレジアが全ハプスブルク領を継承した。しかしザクセン、バイエルンなど相続権をもつ諸侯が継承権を要求、同年即位したフリードリヒ2世(プロイセン王)もシュレジエンを要求して戦争となった。フランスはプロイセン側につき、イギリスはオーストリアと同盟したので、この戦争は、オーストリア、プロイセン間ではシュレジエン戦争、植民地アメリカでのイギリス、フランス間ではジョージ王戦争と呼ばれる。1742年にはバイエルン選帝侯がカール7世(神聖ローマ皇帝)として帝位につくなどのこともあったが、マリア・テレジアの奮闘で 1745年9月、その夫君フランツが正式に神聖ローマ皇帝(フランツ1世(神聖ローマ皇帝))に選ばれ1748年10月のアーヘンの和約で、シュレジエンがプロイセンに譲られたほかは、オーストリアの領土は保全された。
結末
一連の戦争はアーヘンの和約(1748年)によって終結した。オーストリアはシュレジエンと北イタリアのパルマ公国など一部の領地を奪われたが、上オーストリア、ベーメン、オーストリア領ネーデルラント、ミラノなどはすべて奪い返してハプスブルク領の一体性を保持し、神聖ローマ皇帝位も確保した。
相当な外交的、軍事的、財政的努力を費やしてオーストリアの弱体化を図ったフランスの企ては見事に失敗し、イギリスとの植民地戦争も中途半端に終わった。フリードリヒ2世(プロイセン王)のみがシェレジエンをオーストリアから奪い、数々の戦闘で軍事的才能を発揮し、「大王」と謳われることになった。しかし、ヨーロッパの勢力均衡はこの戦争で決着したわけではない。フリードリヒ2世(プロイセン王)が意図しなかったにもかかわらず、やがて七年戦争で再び同じ場所が戦場となる。
参考 Wikipedia
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
プロイセンとオーストリアの絶対王政
1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。