ジョチ (1177年頃〜1225年)
チンギス=ハンの長男。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の始祖。
父・チンギス=ハンに先立って病死し、ジョチの次男バトゥがあとを継ぎ、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)を実質的な創設者となる。
ジョチ
生涯
モンゴル帝室の系図
ジョチはチンギス=ハンの第一夫人ボルテを母とする嫡出の長男で、同母弟にチャガタイ、オゴタイ=ハン、トルイの3人がいる。ただし、当時のモンゴルには、嫡長子を後継者とする制度は存在しなかったので、特に優遇されていたりはしない。
若い頃から父に従ってモンゴル高原の統一に至る戦いに参加し、特に西方の強国ナイマンとの戦いで活躍した。
1206年にチンギス=ハンが高原を統一すると、高原の西に位置するアルタイ山脈の北部からイルティシュ川の上流域に4個の千人隊を所領(ウルス)として与えられ、帝国の最も北西に位置することからオイラト、キルギスなど高原北西の森林地帯に住む諸部族の平定を任せられた。ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の起源。
中央アジア遠征の後、ジョチは西方に広がったモンゴル帝国領のうち、北部の良質な草原を遊牧地として与えられ、ジョチのウルスは本領のイルティシュ川上流域からバルハシ湖の北からアラル海の方面に至る草原地帯(カザフ草原、現在のカザフスタン)に広がった。さらに、ジョチはチンギス=ハンによってアラル海の北からカスピ海の北に広がる草原地帯の諸族の征服を委ねられ、チンギスがモンゴル高原に帰還した後もカザフ草原に残って北西方への拡大を担当することになった。
出生をめぐる問題
ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味する。
もともとチンギスの母ホエルンはメルキト部の者と結婚していたが、モンゴル部のイェスゲイによって略奪されてその妻となり、テムジン(チンギス=ハン)を生んだ。のちにイェスゲイの遺児テムジンが結婚したことを知ったメルキトは、ホエルン略奪の復讐としてテムジンを襲撃してボルテを略奪し、ホエルンの元夫の弟にボルテを結婚させた。一方、逃げ延びたテムジンはトオリルとジャムカの助けを得てメルキトを討ち、ボルテを取り戻す。しかし、そのときボルテは妊娠して出産間近であり、まもなくジョチが生まれた。このため、ジョチはメルキトの子ではないかと疑われ、のちにジョチのすぐ下の弟チャガタイは、父の面前でジョチをメルキトの子と罵ったが、チンギスはあくまでジョチを長男として扱った。
『元朝秘史』の物語の史実性の是非は不明だが、このことで弟チャガタイと不和だったと言われている。