スブタイ
スブタイ©Public Domain

スブタイ


スブタイ (1176年〜1248年)
モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」とも表記される。
チンギスに仕えた続けたモンゴル帝国草創期の第一等の勲臣。「四駿四狗」のひとり。

スブタイ

スブタイが参加した戦争・戦闘

27.モンゴルの大帝国 交通・貿易の発達 スコータイ朝 デリー・スルターン朝 元の東アジア支配 元と4ハン国(13世紀の世界地図)
元と4ハン国(13世紀の世界地図)©世界の歴史まっぷ

戦争

モンゴルのホラズム・シャー朝征服

1219年〜1222年
チンギス=ハンより、ジェベと共にホラズム王アラーウッディーン・ムハンマドの追撃を命じられ、彼を追って西に進んだ。
スブタイはホラーサーン地方に進んでホラーサーンからクーミスに至る地域に点在する都市を略奪し、モンゴル軍の略奪や破壊の利益に与ろうとする軍人やならず者たちがスブタイらの軍に加わっていった。スブタイはイランのシャフレ・レイで行動を別にしていたジェベと合流して町を略奪し、アラーウッディーンが逃亡したマーザンダラーンに侵入する。スブタイたちはゴム(イラン)を略奪し、ガズヴィーンでは占領後に住民たちからの攻撃を受け、およそ40,000人の民衆を殺害した。

1220年12月にアラーウッディーンはカスピ海上のアバスクン島で没するが、スブタイとジェベはムハンマドの死を知らないまま進軍を続け、アラーウッディーンの逃亡先と推測した北イランと南コーカサスに攻撃を行った。
アゼルバイジャン地方に進んでこの地を支配するイルデニズ朝を屈服させ、隣接するグルジア王国を攻撃する。
グルジア攻撃は1220年から1221年にかけての冬に行われ、春になるとスブタイらはアゼルバイジャンに戻ってイルデニズ朝から物品を徴収した。
追撃隊はマラーゲ、アルビール、ハマダーンなどのイラン・イラク北部の都市とアゼルバイジャンを襲撃するが、タブリーズでは市民の頑強な抵抗に遭って退却する。
1221年10月にアッラーン地方のバイラカーンで虐殺を行い、アッラーンの中心都市のギャンジャに迫るが、ギャンジャの市民が戦闘に長けていることを知ると貢納を受け取って退却し、再びグルジアを攻撃した。

カルカ河畔の戦い

1223年
1222年後半にスブタイらはデルベントを越えてカフカス北麓に到達し、現地に居住するオセット人、レズギン人、チェルケス人、キプチャク人の連合と衝突した。
モンゴル軍はキプチャク人を買収して連合軍を破った後、残ったキプチャク人を攻撃して彼らの居住地であるキプチャク草原に侵入した。
キプチャク人はモンゴルから逃れるために西方に移動し、キプチャク人の族長の一人コチャン (ポロヴェツ族)は義父であるガーリチ公ムスチスラフ・ムスチスラヴィチに助けを求めた。ムスチスラフはコチャンの要請に応え、キエフにルーシ諸侯を集めて連合を結成した。
1223年5月31日にカルカ河畔でスブタイ、ジェベはルーシ諸侯・キプチャクの連合軍と戦い、大勝を収めた(カルカ河畔の戦い)。カルカ河畔の戦いはモンゴルとヨーロッパ世界の間に起きた最初の軍事的接触であり、後のモンゴルのルーシ侵攻の動機になる。

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻

1223年
カルカ河畔の戦いの後にクリミア半島に侵入し、交易都市として繁栄していたスダクを攻撃した。やがてスブタイたちはヴォルガ川を北上してブルガール地方に到達する(モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻)。
ヴォルガ・ブルガール人から強固な抵抗を受け、スブタイらは東方に帰還し、イルティシュ川流域で遠征の帰路についていたチンギスと合流した。
スブタイ、ジェベらが率いたモンゴル軍の情報と噂はルーシを経てヨーロッパに伝えられた。

第二次対金戦争

1230年から1234年

三峰山の戦い

1232年
トルイとともに完顔合達、完顔陳和尚かんがんちんわしょうらが率いる金朝の軍隊に勝利を収める。
同年4月にスブタイはオゴタイ=ハンの命令を受け、皇帝・完顔寧甲速が籠る汴京(開封)を包囲する。
オゴタイ=ハンから降伏を勧告された第9代皇帝哀宗(金)はモンゴルに人質を差し出して和約の締結を求めたが、スブタイは和平の締結は自分の関知するところではないと答えて攻撃を続けた。モンゴル軍は投石器を使って城壁の周囲の濠を埋め、楼や櫓を破壊した。しかし、守備隊が使用した火薬兵器の震天雷と飛火槍によってモンゴル軍は城内への侵入を阻まれ、5月に包囲を解いて退却した。
1232年8月に金朝との和平交渉にあたっていたモンゴルの使節団が金の兵士によって殺害されて講和は決裂し、スブタイは再び汴京の攻撃に取り掛かり、1233年にスブタイは哀宗(金)が脱出した後の汴京に2度目の包囲を敷いた。
城内は食糧と物資の欠乏に見舞われ、金の将軍・崔立さいりつによって汴京はモンゴル軍に明け渡された。汴京の陥落前、スブタイは事前に城の攻略に際して自軍の兵士が多く負傷した報復として町で虐殺を行う許可をオゴタイ=ハンに求めていたが、耶律楚材の制止によって金の帝室の人間のみが虐殺の対象となった。

モンゴルのルーシ侵攻

1223年、および1236年から1240年

バトゥの征西

1236年
1235年に開催されたクリルタイにおいてヨーロッパ遠征が決定されると、スブタイは軍事能力と長年にわたる従軍経験を評価され、遠征の総司令官を務めるバトゥの副官に任じられた。この時のヨーロッパ遠征では、スブタイがバトゥに代わる実質的な総司令官を務めていたとも考えられている。
1236年春にスブタイはブルガール地方を攻撃し、ブルガールの族長たちを屈服させる。
1237年から1238年にかけ、遠征軍はリャザン(旧リャザン)、ウラジーミル、スーズダリ、トヴェリなどのルーシの都市を陥落させた。
スブタイは略奪によって食糧を集めながら南下し、ドン河畔で兵士に休息を取らせた。モンゴルへの服従を拒むカフカスの民族が制圧された後に遠征軍は行軍を再開し、1240年にキエフを破壊する。
スブタイの軍はモルダヴィアを抜け、1241年にハンガリーに侵入したバトゥの本隊と合流した。

モヒの戦い

モヒの戦いにおいて、スブタイはハンガリー王ベーラ4世が率いるハンガリー軍に勝利を収めた。
同年にオゴタイ=ハンが没するとヨーロッパ遠征は中止され、スブタイは東方に帰還した。
スブタイは帰国後にオゴタイ=ハン没後に開催されたクリルタイに参加した後、トゥラ河畔に与えられた遊牧地に居住し、1,100の封戸を有した。
死後、河南王に追封された。

Wikipediaより

スブタイが登場する作品

フビライ・ハン

フビライ・ハン

スブタイ
フビライ・ハン ©)Beijing Sunshine Sheng Tong Culture and Arts Co. Ltd.

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