チベット仏教 ポタラ宮 ラサのポタラ宮の歴史的遺跡群
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チベット仏教


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チベット仏教

7世紀、吐蕃とばん時代にインド系仏教(密教)を受容し、大乗仏教とチベット固有のボン教が融合してチベット仏教の基礎が形成される。元朝・明朝に厚遇され堕落するチベット仏教を避難し、14世紀、ツォンカパが厳格な戒律の実行を説いた。従来の宗派を総称して紅帽派こうぼうは(紅教)というのに対して、彼の派を黄帽派こうぼうは(黄教またはゲルクパ(徳行派))という。以後、黄帽派の教主(法王)がラサを首都としてチベットの政治と宗教を支配し、16世紀後半にはモンゴルのアルタン・ハーンが教主に対してダライ・ラマの尊称を贈り、チベット仏教の教主はダライ・ラマと呼ばれる。1951年、チベットが中華人民共和国に併合されると、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。

チベット仏教

特色

  1. チベット仏教は、インド仏教の流れを直接受け継いでいる。サンスクリットの原典を正確に翻訳し、思想哲学や実践修行の面でも、インド仏教の伝統を忠実に踏襲している。
  2. チベット仏教には、中国や日本へ伝わっていない教えが数多く存在する。なかでも、最高の思想哲学であるプラサーンギカ派、最奥義の実践修行アヌッタラヨーガタントラの両者はチベット仏教最大の特色である。
  3. 仏教には、たとえば小乗、大乗、密教といった具合に、一見相互に矛盾するそれらを全て整合性のある数理体系にまとめあげ、実践の指針を提示している。
  4. 釈尊は弟子たちに、自ら良く考えて教えの中味を吟味し、その後ではじめて教えを信奉するように説いている。チベット仏教では、釈尊のこうした戒めを肝に銘じ、盲信や実践至上主義を排し、明快な論理による志向を重視している。

4大宗派

  • ゲルク派:最高指導者ダライ・ラマが、チベット国王を兼ねていたため、チベット動乱以後は、最も苦しい立場に追い込まれた。
    6大本山のうち総本山ガンデン寺は、動乱のおりダライ・ラマ側の拠点になったため、徹底的に破壊され、主要な堂塔のほとんどを失った。現在ツォンカパの霊塔を納めるヤンパチェン、ガンデン寺座主の黄金座があるセルティカン、歴代座主の住坊ティクトカンなどが、復興されているに過ぎない。
  • カギュー派:多くの支派が分立し、統一的な組織は存在しなかったが、チベット動乱以後ダライ・ラマ亡命政権によって、第16世カルマ黒帽ラマ、カルマ・ランジュン・リクペードルジェ師(1942-1981)が、カギュー派全体の管長に任命された。
  • サキャ派:サキャ派政権の崩壊後もサキャ派の総本山として繁栄していた。しかしチベット動乱後、主な宗教指導者は国外に亡命し寺も衰微した。現在サキャ北寺は、完全に破壊されて跡形もないが、南寺は比較的良好に保存されている。特に南寺本堂裏の書庫に保存されていた厖大な文献が難を逃れたのは、不幸中の幸いといわねばならない。
  • ニンマ派:他宗と同じく、チベットのニンマ派寺院も、文化大革命中に大きな被害を受けた。総本山ミンドゥルリン寺、ドルジェタク寺も例外ではなく、宗教活動はほぼ停止するに至った。このうちミンドゥルリン寺は、インドのデラドゥンに再建された。管長のミンドゥルリン・ティチェンは、ニンマ派の伝統的な最高指導者であるが、創設者テルダクリンパの一族による世襲制のため、必ずしも宗教的資質に恵まれた人物が就任するわけではない。

参考 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所 チベットハウス・ジャパン

チベット問題

  • 1911年、辛亥革命で清朝が倒れる。
  • 1913年、チベットはダライ・ラマ13世の下で独立を宣言。
  • 1949年、中華人民共和国成立。中国共産党政権はチベット統治権を主張。
  • 1950年10月、中華人民共和国はチベットに軍隊を派遣。
  • 1951年5月、チベットは中国側の要求を受諾、編入される。
  • 1959年3月、ダライ・ラマ14世を擁したチベットが反乱(チベット蜂起)をおこすが鎮圧され、ダライ・ラマ14世はインドに亡命。亡命先のインドでチベットの独立を宣言、現在にいたる。
  • 1989年、宗教指導者としてチベット問題の平和的解決を訴えているダライ・ラマ14世がノーベル平和賞受賞。
  • 中国政府当局はチベットに自治権を与え、チベット仏教の信仰も認め、そのシンボルとしてダライ・ラマに対抗していたパンチェン・ラマを保護下においた。
  • 1990年代以降、漢民族のチベットへの移住が増加し、チベットの独自文化が失われていく傾向にあり、チベットの独立問題と共にチベット仏教も深刻な岐路に立っている。

東アジア世界の形成と発展

東アジア文化圏の形成

唐文化の波及と東アジア諸国
吐蕃

吐蕃とばん(7〜9世紀)は、チベットにおいてソンツェン・ガンポが建国した。吐蕃は国力が強大となり、しばしば中国に侵入したので、唐は皇女(文成公主ぶんせいこうしゅ)を降嫁し、その慰撫いぶにつとめた。吐蕃はインド系の仏教(密教)を受容し、チベット仏教(ラマ教)の基礎が形成され、また、インド系の文字をもとにして独自のチベット文字がつくられた。安史の乱によって唐が衰え始めると、吐蕃は勢力を拡大し、敦煌を占領し、一時長安にも侵入(763)するなど、唐を苦しめた。823年、ラサにたてられた「唐蕃会盟碑とうばんかいめいひ」は、両国の和約を記したものであるとともに、漢文・チベット文で書かれており、言語学上においても貴重なものとなっている。

唐文化の波及と東アジア諸国 – 世界の歴史まっぷ

内陸アジア世界の変遷

モンゴル民族の発展

元の東アジア支配

フビライの死後、元朝内部では皇位継承をめぐる相続争いが続いた。元朝になってからも皇位継承の制度が確立されず、クリルタイで後継者を決定する習慣が残っていたため、一族・重臣の間で激しい権力争いが生じた。
経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔こうしょうを濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。

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東西文化の交流と元代の文化

元朝は、各民族の宗教に対しては寛容と保護を基本とした。イスラームキリスト教、仏教(チベット仏教、禅宗など)、道教(全真教など)の宗教団体には、元朝に反抗しない限りに於いて、免税などの特権が付与された。

チンギス=ハンはウイグル文字を採用してモンゴル語の表記に使用させた(のちに改良されて現在のモンゴル文字になる)。その後、モンゴルの支配下に、多種多様な言語、民族、宗教が含まれるようになると、フビライは帝国内のさまざまな言語に対応できる文字の作成をチベット仏教の僧侶パスパに命じた。こうして、チベット文字を原型として考案されたパスパ文字は「国字」とされて、皇帝(ハン)の勅書や貨幣、牌符など公的なものに使用された。そのため元滅亡後はほとんど使われなくなった。

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アジア諸地域の繁栄

東アジア・東南アジア世界の動向

14世紀の東アジア

中国でもこのころ政権内部の内紛が続き、さらには自然災害や飢饉が多発して、元朝の支配にかげりが見え始めた。当時元朝では、貴族の贅沢な宮廷生活やチベット仏教への熱狂的信仰のために莫大な経費を必要とし、国家財政が窮乏した。その対策として元朝は交鈔こうしょうを濫発したので、物価の騰貴を招き、民衆の生活が次第に苦しめられていった。これに加え元朝は専売制度の強化を行い、それが黄河の氾濫をはじめとする自然災害や飢饉と相まって民衆の生活を苦しめた結果、生活に困窮した農民は各地で暴動をおこした。この農民反乱はやがて全国に波及していき、中でも宋代から始まる弥勒仏下生みろくぶつげしょうを中心とする仏教系結社である白蓮教びゃくれんきょうを主体とした紅巾の乱白蓮教徒の乱)がもっとも大規模なものであった。

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清代の中国と隣接諸地域

清朝の統治

清の皇帝は満州族のリーダーであるとともに、中国歴代王朝の伝統をつぐ中華皇帝でもあり、また内モンゴルのチャハル部を平定した際に元朝の皇室に伝わったという玉璽ぎょくじを手に入れたことからモンゴル帝国のハンの継承者としてのぞみ、さらにはチベット仏教の外護者(大施主)でもあった。つまり清の皇帝は「多面的な顔」をあわせもった君主といえる。清はその前半期、康熙帝のあと、雍正帝ようせいてい(世宗 位1722〜1735)、乾隆帝けんりゅうてい(高宗 位1735〜1795)と明君が続き、その約130年間は清朝の最盛期であり、彼らはそうした「多面的な顔」をもって独裁的な権力をふるった。

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清朝支配の拡大

対外発展を続けてきた清は、その拡大された領土を3段階に分けて統治した。中国内地・東北地方・台湾を直轄地として直接支配し、内外モンゴル・東トルキスタン(新疆)・青海・チベットを藩部として理藩院が統括し、朝鮮・ベトナム・タイ・ミャンマーを属国として朝貢国の待遇を与えた。

清は、内外モンゴルをはじめとする藩部に対しては監督官を派遣するものの、それら藩部の習慣や宗教についてはほとんど干渉しなかった。しかし、清はチベット仏教に対しては手厚い保護を与えた。

元代にチベット仏教は厚遇され宮廷内に広まり、歴代皇帝の熱狂的信仰もあって莫大な出費により国家財政は混乱し、滅亡の原因のひとつとなった。明も元に引きつづいてチベット仏教を厚遇し、とりわけ永楽帝はチベット仏教の信奉者しんぽうしゃとなった。そのためチベット僧と明王室の関係はますます深まり、チベット僧の横暴と堕落とを招いた。

堕落したチベット仏教を改革しようとしたのが、ツォンカパ(1357〜1419)である。彼は従来のチベット仏教が中国王朝の厚遇をえて退廃したのを厳しく非難し、厳格な戒律の実行を説いた。従来の宗派を総称して紅帽派こうぼうは(紅教)というのに対して、彼の派を黄帽派こうぼうは(黄教)という(またはゲルクパ(徳行派)という)。これは僧侶が着用した僧帽の色による区別である。以後、黄帽派の教主(法王)がラサを首都としてチベットの政治と宗教を支配するようになった。16世紀後半にはモンゴルのアルタン・ハーンが黄帽派チベット仏教の信者となり、彼は教主に対してダライ・ラマの尊称を贈った。
ポタラ宮
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チベットの首都ラサの郊外マルポリ(紅山)山頂に白石で11層にきずかれた宮殿。歴代のダライ・ラマが居住し、毎年数万人のチベット仏教徒の巡礼が集まった。ポタラとは歴代のラマ(活仏)の化身とする、観音の住む所を意味する。

ダライ・ラマ:ダライは「大海」を、ラマは「師」を意味し、チベットにおける政治・宗教の最高権力者である。

これ以降、チベット仏教の教主はダライ・ラマと呼ばれる。アルタン・ハーンが黄帽派チベット仏教の信者となって以後、モンゴル人の間にチベット仏教が広まった。1720年、チベットを領土とした清は、ダライ・ラマなどの活仏かつぶつを保護・厚遇したが、これはチベットはもとより、チベット仏教信者の多いモンゴルの人々の支持をえようとしたのである。

ラマの遺言で指定した地域から1年以内に生まれた幼児のなかから、神異のある者をラマの生まれかわり(転生)として選び、これを活仏とした。妻帯を禁じた黄帽派が、教主継承方法として制度化したもので、現在にいたっている。

清朝支配の拡大 – 世界の歴史まっぷ

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