バトゥの西征( A.D.1236〜A.D.1242)
バトゥの率いるモンゴル軍の遠征軍は、1236年に遠征を開始、ウラル山脈を越えて、まずヴォルガ川中流のトルコ系のヴォルガ・ブルガール王国を征服した。その周辺のキプチャク平原で遊牧活動をしていたトルコ系のキプチャク人を吸収し、15万の大軍を編成し、1237年ロシア中心部に侵入、リャザン、モスクワ、ウラジーミルを次々と陥落させ、1240年キエフを征服しキエフ公国を滅ぼした。さらに遠征軍を二隊に分け、バトゥの本隊はハンガリーに侵攻、1241年ハンガリー王国のベーラ4世の軍を撃破し首都ブダペストを破壊した。北に向かった一隊はポーランドに侵攻し、同年、ワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ連合軍を破った。
バトゥの西征
1236年、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四駿四狗の一人であるスブタイやチンギス=ハンの四男トルイの長男であるモンケ、そしてオゴタイ=ハンの長男であるグユクらを副司令として出征した。『元朝秘史』によれば、各王家の長子クラスの皇子、帝国全土の王侯・部衆の長子など次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが一斉に出征するという大規模なものだった。
バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、グユクはそのもとで皇帝オゴタイ=ハンの本営軍から選抜された部隊を統括するよう勅命によって定められていたことが続けて述べられており、加えて『集史』によれば、チンギス=ハンの功臣筆頭のボオルチュの世嗣ボロルタイがこのバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。
- ジョチ家: 総司令バトゥを筆頭に、異母兄オルダと異母弟ベルケ、シバン、タングト。
- チャガタイ家: チャガタイの長子モエトゥケンの次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイの6男バイダル。
- オゴタイ=ハン家: 長子グユク、その末弟カダアン・オグル。
- トルイ家: 長子モンケと7男ボチェク。
- チンギス家: チンギス=ハンと次席皇后クラン・フジンとの子コルゲン。
遠征軍の征服目標はジョチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガール、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。
ブルガール、キプチャク方面の征服
1236年のモンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻
遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジョチ家のオルドがあったイリ方面にまで到着した。1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまずアス人とブルガル人の征服に取り掛かった。宿将スブタイはヴォルガ・ブルガール地方に入るとブルガル市を攻撃。その首長バヤン、ジクらが一度遠征軍のモンゴル王侯らに帰順を表明してきたがまもなく離反し、スブタイがこれらの服属工作を任され、これを達成した。
1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施し、左翼をモンケに任せた。モンケの左翼軍はカスピ海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。遠征軍はこれによりカスピ海沿岸地域で夏営した。
この時期にカスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが帰順・征服された。
ルーシ諸国の征服
1236年のモンゴルのルーシ侵攻
1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン(旧リャザン)、コロムナが劫略された。
1238年に入り2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。
ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けている。この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略されたと見られている。その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。
この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。このころ総司令官バトゥはグユク、ブリらと論功行賞などで激しく対立し、その報告を受けたオゴタイ=ハンの帰還命令によってグユクとモンケは1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発した。
1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。またモンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。
ハンガリー、ポーランド、中欧の征服
モンゴルのポーランド侵攻
1240年後半から1241年 モンゴルのポーランド侵攻
1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。
まず西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。
シレジア、モラヴィア地方も「ペタ」なる人物の侵攻を受けたようだが、これはバイダルのことと考えられている。カダアン、ブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたサーサーン人(おそらくザクセン人)を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。
一方同年3月にはバトゥの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に降伏勧告を行った。やがてモラヴィアからバイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、ペシュト市を陥落させている。
ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世と対峙、宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至った。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。
続く1241年はカダアンらによるトランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などが行われた。夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。
オゴタイ=ハンの訃報とハンガリー以西からの撤退
しかし1241年12月21日にオゴタイ=ハンが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届いた。
1242年3月にバトゥはオゴタイ=ハンの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じた。
モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退したようである。
こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。
しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルースィ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となったのである。
参考 Wikipedia