ピューリタン革命( A.D.1642〜A.D.1649)
ピューリタンを抑圧したチャールズ1世(イングランド王)は、スコットランドの反乱鎮圧に失敗し、戦費を補う増税のため、11年間開催していなかった議会を招集。議会は紛糾し、王党派と議会派の対立は内戦へと発展した。独立派のクロムウェルは平等派と組み、穏健な長老派を追放、チャールズ1世を処刑。この一連の流れをピューリタン革命という。クロムウェルは共和制を開始すると、さらに平等派にも弾圧を加え、実質上の独裁権を握った。
ピューリタン革命
清教徒革命
ピューリタン革命とも呼ばれる。1640~1660年のイギリスの市民革命。独立派、長老派などの清教徒(ピューリタン)が中心勢力であったところからこう呼ばれる。1640年短期議会に続く長期議会はチャールズ1世(イングランド王)の専制政治をきびしく批判したが、1641年末の大抗議文をめぐり国王派(騎士党)と議会派(円頂党)との対立が明確化し、1642年夏武力衝突へと発展した。10月のエッジヒルの戦いは勝敗なく終ったものの、軍事的には初め国王派が優勢であったが、議会派にO.クロムウェルが現れ、鉄騎隊を編制してマーストンムーアの戦いで国王派を破り、1645年議会軍はニュー・モデル軍に編制されて優位となり、6月ネーズビーの戦いで決定的勝利を収めた。翌年王はスコットランド軍に投降、議会派に引渡されて第1次内乱は終った。しかし国王の処置、軍の削減などの問題をめぐって議会派内部の長老派、独立派、平等派の間に対立が深まり、1648年王と結んだスコットランド軍の侵入により第2次内乱となったが、短期間で鎮圧。この年12月独立派はプライドの追放により長老派を議会から追放、1649年1月チャールズ1世(イングランド王)を公敵として処刑し、同年平等派とディッガーズの反乱をも鎮圧して王政と上院を廃した共和国を樹立した。1650~51年スコットランドが皇太子チャールズ(のちのチャールズ2世(イングランド王))を王と宣言し、共和国軍はこれを征討。1651年航海法の発布が原因となって第1次イギリス=オランダ戦争が勃発、議会と軍との対立が激化したが、1653年クロムウェルは武力で議会を解散、統治章典によって彼を護国卿とする独裁政権が成立した。しかし、きびしいピューリタニズムに基づく軍事的な政権は不評で、彼の没後2年目の1660年に王政復古が実現した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
データ
ピューリタン革命
種類 | 市民革命 |
目的 | 王権の制限、カトリック勢力の排除 |
対象 | 絶対王政、カトリック勢力 |
結果 | 絶対王政の打倒。議会制民主主義の優位。アイルランド再征服 |
発生現場 | イングランド、スコットランド、アイルランド |
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
「17世紀の危機」と三十年戦争
南・北アメリカやアジアへの進出がみられた16世紀とは対照的に、17世紀のヨーロッパ経済は、対外進出がとまり、人口や貿易も規模がむしろ小さくなりはじめたうえ、物価も下降線を描き、典型的な「縮小」ないし「下降」の局面に入った。とくに、ヨーロッパを中心とする世界経済の重要な柱となっていたアメリカ貿易と東欧・バルト海との貿易は、停滞の色をこくした。
こうした経済的危機は社会に不安をもたらし、たとえば「危機」の影響のもっとも少なかったイギリスにおいてさえ、一度は消滅していた「魔女狩り」のような現象が復活するなどした。社会不安は政治をも不安定にし、世紀中ごろを中心に、イギリスのピューリタン革命やフランスのフロンドの乱(貴族の反乱)、スペインでのカタルーニャ反乱など、多くの革命や反乱をもたらした。これが、全体として「ヨーロッパの全般的危機」と呼ばれている現象である。
- 「17世紀の危機」と三十年戦争 – 世界の歴史まっぷ
イギリス立憲政治の発達
ピューリタン(清教徒)革命
イギリスでエリザベス1世(イングランド女王)が未婚のまま没すると、テューダー朝の血統が絶えた。このため1603年、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)(位1603〜1625)として迎えられ、ここにステュアート朝が開かれた。これ以後、1707年に正式に合同するまで、両国は「同君連合」のかたちをとる。彼は長年のスペインとの対立を解消し、平和主義者とみられたが、外国人の国王でもあり、その支持基盤はきわめてもろかった。王権神授説を唱え、専制政治に走ったのも、むしろその弱さの表れとみられている。
エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。
ピューリタニズム
本来は、宗教改革を徹底することによって、国教会の浄化をめざした運動であったが、カルヴァン派の影響をうけ、政治的・社会的な運動として展開した。一般には聖書主義(福音主義)の立場をとり、世俗の職業を重視して、合理主義の立場から禁欲や勤勉を説いた。長老派、組合派、バプテスト、クェーカーなど多様なセクト(宗派)に分かれ、イギリスではピューリタン革命の原動力となったほか、多くのセクトがアメリカで発展した。
次のチャールズ1世(イングランド王)(位1625〜1649)は、父王ジェームズ以上に専制を強化した。このため1628年、議会は「権利の請願」を提出して、議会の同意していない課税や法にもとづかない逮捕や投獄をやめることなどを国王に約束させた。これに対して国王は、翌年、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。この間、カンタベリー大主教ウィリアム・ロード(1573〜1645)やトマス・ウェントワース(初代ストラフォード伯爵)(1593〜1641)を重用して、国教会と国家の結びつきを緊密にした(「ロード=ストラフォード体制」という)ことによって、国民の決定的な不評をかった。しかし、1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱がおこり、チャールズ1世としても戦費調達のため議会を召集せざるをえなくなった。
しかし、このために開かれた議会は課税を拒否したうえ、国王を激しく避難したため、国王は3週間でこれを解散した(短期議会)。同年、新たな議会(1653年まで10年以上続いたため、長期議会という)が開かれたが、対立はますます深刻化し、1642年、5名の議員を逮捕しようとして失敗した国王は北部のヨークに逃れ、イギリスは内乱状態に突入した。
内乱では、初めは王党派が優勢であったが、議会派の中心となった独立派のオリバー・クロムウェル(1599〜1658)が鉄騎兵や近代の国民軍に近い性格の「新型軍(鉄騎隊)」を編制して、1644年、ネイズビーの戦いで、王党派は決定的に打ち破られた。ついに1649年には国王は処刑され、クロムウェルら議会派が共和制を打ち立てた。この一連の動きをピューリタン革命という。
いったん勝利した議会派のなかでは、政権の中枢に座った独立派と、長老派や主として小ブルジョワを代表したといわれる平等派(水平派、レヴェラーズ)との間に、つぎつぎと対立が生じた。
サムエル・クーパー作の未完成の肖像画。力強く、人間味あふれる印象を与える。彼はピューリタン的生活を国民に強制し、大衆の楽しみであった演劇などの娯楽を禁止した。
クロムウェルの率いる独立派は、まずより急進的な平等派と組んで、スコットランドやロンドンの大商人に支持者の多かった穏健な長老派を追放し、ついで1649年には、リルバーン(1614〜1657)をリーダーとした平等派をも抑えて、独裁権を確立した。
権力を確立したクロムウェルは、貴族院を廃止して庶民院のみとし、アイルランドを征服したほか、1651年には航海法(航海条例)を施行してオランダの中継貿易を排除しようとした。このためにおこった第1次イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争 1652〜1654)に勝利すると、1653年終身の護国卿となり、軍事独裁をおこなった。劇場を封鎖し、ほとんどの娯楽を禁じるなど、厳格なピューリタニズムにもとづくクロムウェルの独裁政治は、民衆の反感をかい、王政復古につながった。
航海法
イギリス重商主義政策の根幹をなした政策で、直接的には、オランダに対抗してイギリス海運業の利益を守ることを目的としたが、結果として、貿易業や製造業をも保護することになった。
1651年法では、イギリスと植民地の貿易を基本的にイギリス船に限定することを規定し、1660年法は、植民地が砂糖・タバコ・藍など植民地の特産物をイギリス以外の国に直接輸出することを禁止した。さらに、1663年法では、植民地の輸入をもイギリス船に限定した。他方では、これらの政策は植民地人の不満のもとにもなった。
17〜18世紀のヨーロッパ文化
「生活革命」
自由で身分にこだわらなかったコーヒーハウスは、ピューリタン革命と名誉革命という、17世紀の2つの革命によって伝統的な支配階級の多くの家系がゆらぎ、他方で貿易が大発展したことで商人など市民の力が強くなったために、人々が比較的簡単に社会的に上昇したり、転落したりするようになった時代の産物でもあった。しかし名誉革命後、社会の体勢が安定してくるにつれて、18世紀のイギリス社会は階層間の流動性が低下し、社会層が固定的になったため、これほど流行したコーヒーハウスも急速に下火になり、身分や階層による入会制限の厳しい「クラブ」が多くなった。