ピョートル1世( A.D.1672〜A.D.1725)
ロシアのロマノフ朝第5代ツァーリ。1721年に初代インペラトール(皇帝)としてロシア帝国に改めて西欧の科学や技術を導入し、内政改革、軍備強化、税制改革、産業の振興に努めた。スウェーデンとの戦争に勝利してバルト海を制し、東欧の最強国としてヨーロッパ国際政治の舞台に台頭した。
ピョートル1世
自ら西欧視察に参加しロシアを大改革
愚鈍といわれた異母兄イヴァン5世の死により、ロシア単独統治者に就いたのが24歳のとき。ロシアが他の西欧諸国に遅れをとっていると自覚していたピョートル1世は地位を隠し、自ら250名に及ぶ外交大使節団の一員となり、各国を視察して回った。帰国後は、税制、産業、軍事、教会と、国内の大改革をおこなった。
北東ヨーロッパの強国スウェーデンに少年王が即位すると、好機と見てポーランド、デンマークと北方同盟を結成。スウェーデンを破り(大北方戦争)、バルト海の制海権を握った。同時に首都をペテルブルク(現・サンクトペテルブルク)に移し「西欧への窓」を開いた。東方では、清とネルチンスク条約を結び、国境を定めた。
啓蒙専制君主として、ロシアを強大な帝国に押し上げたが、内政では市民の服装や生活まで規制したため、反乱が頻発した。皇太子アレクセイも反乱に加わったとして、拷問の末に獄中死させた。
ピョートル1世は身長2mを超える長身で、腕力も強く、力仕事はお手のものだったという。視察旅行中も、造船所で肉体労働を経験した。お忍びの参加だったが、その目立つ姿から正体は見破られていたらしい。
ロシアのペテルゴフに建つ、ピョートル1世の夏の離宮「ペテルゴフ宮殿」。ピョートル1世の命により当時の先端技術を投入されて建設されたもので、ベルサイユ宮殿の影響が見られる。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機時代の主権国家
ロシアの台頭
17世紀末に即位したピョートル1世(ピョートル大帝 位1682〜1725)は、武器の製造技術、造船技術など西欧の科学や技術を熱心に導入し、内政改革、とくに軍備の強化、税制の改革、産業の振興に努めた。
他方では、農奴制をいっそう強固にしたので、皇帝権はますます強化された。対外的には、オスマン帝国に対抗する同盟関係を推進し、シベリア経営をさらに進め、1689年には清朝とネルチンスク条約を結んで、黒竜江の北の外興安嶺とアルグン川を結ぶ線に国境を画定し、通商を拡大した。
1700年に始まったスウェーデンとの大北方戦争は、21年におよんだ。はじめのうちロシア軍は優勢なスウェーデン軍にナルヴァの戦いで大敗したが、西欧の技術を導入したピョートルの改革が功を奏してもりかえし、1709年のポルタヴァの戦い以後は優勢となり、念願のイングリア、エストニア、リヴォニアを獲得して、バルト海東岸に進出した。
この長期の戦争は結局、1721年の二スタット条約によってロシアの勝利となって終わった。ピョートルはこの間に、バルト海に面するネヴァ川の河口に「西欧への窓」となる都市ペテルブルクを建設して、ここに首都を移した。これ以後、ロシアは東欧の最強国として、ヨーロッパ国際政治の舞台に台頭する。