フランス革命(
A.D.1789〜A.D.1799)
三部会の招集を契機に革命が始まり、バスティーユ襲撃事件の衝撃は地方にも波及し、大恐慌が広がった。国民議会は人権宣言を採択し、アンシャン=レジームに終止符をうった。国王の逃亡事件、革命戦争は、共和制樹立と王の処刑、ジャコバン派の恐怖政治へと走らせ、恐怖政治はクーデタで倒された。ブルジョワジー主導下、総裁政府では革命を収拾できず、ナポレオンのクーデタで統領政府を樹立した。
フランス革命
欧米における近代社会の成長
旧制度(アンシャン=レジーム)の矛盾が深まったフランスでは、三部会の招集を契機に革命が始まった。バスティーユ襲撃事件の衝撃は地方にも波及し、「大恐慌」が広がった。国民議会は封建的諸特権の廃止を宣言、人権宣言を採択し、アンシャン=レジームに終止符をうった。さらに国王の逃亡事件、革命を敵視する諸国との戦争は、共和制樹立と王の処刑、ジャコバン急進派の恐怖政治へと革命をいっそう激しい方向に走らせた。マクシミリアン・ロベスピエールの恐怖政治がクーデタで倒されたあと、ブルジョワジーの主導下で革命の収拾が試みられた。総裁政府が実現できなかった政治秩序の安定は、ナポレオン・ボナパルトのクーデタでもたらされたが、ナポレオン体制はヨーロッパを戦争の渦にひきこんだ。彼の失脚後、古い秩序の回復がはかられたが、革命がもたらしたもののすべてを消し去ることはできなかった。
10.近代ヨーロッパ・アメリカ世界の成立
46.フランス革命
1. フランス革命の構造
フランス革命の原因は旧制度(アンシャン=レジーム)における身分制度の存在と矛盾にあった。すなわち第一身分と第二身分は免税などの特権をもち、広大な土地と重要な官職を独占する特権身分であり、残りが全人口の9割以上を占める第三身分であった。そこには領主への貢租や重い国税に苦しむ農民や、不合理な身分制度を打破し、自由な社会の樹立を望むブルジョワがいた。国家財政はルイ14世の晩年以来窮乏していたが、ルイ16世(フランス王)の即位後、アメリカ独立戦争への参戦で破綻した。そこで王はテュルゴーやネッケルらの改革派を起用して財政改革をはかったが、特権身分は抵抗し、逆に王権への発言力を高めようと、国王に三部会の招集を同意させた。
2. 立憲君主制の成立
1789年5月、三部会が召集されると議決方法で対立し、第三身分はみずから国民議会と称し、憲法制定までは解散しないことを誓った。これを球戯場(テニスコート)の誓いという。これに対して王は貴族に動かされて武力で国民議会を圧迫した。それを知ったパリの民衆は、これに反発して蜂起し、7月14日、バスティーユ牢獄を襲撃した(バスティーユ牢獄襲撃)。暴動が全国に波及すると、8月4日、国民議会は自由主義的な貴族の提案によって封建的特権の廃止を宣言し、8月26日にはラ=ファイエットらの起草した人権宣言を採択した。これは人間の自由・平等・主権在民、私有財産の不可侵をうたい、旧体制の消滅と市民革命の原理を明らかにしたものである。10月初め、国王は女性を先頭にしたパリの民衆によりヴェルサイユからパリに移された(ヴェルサイユ行進)。この時期の議会を指導したのは、ラ=ファイエットやミラボーらの立憲君主派であり、彼らの手でギルドの廃止など自由主義的改革が実現された。1791年には制限選挙制にもとづく立憲君主制の1791年憲法が交付された。(改革の第1段階)
3. 戦争と共和制
憲法制定直前の1791年6月に国王一家は国外逃亡をはかり、ヴァレンヌ逃亡事件をおこして国民の信頼を失った。このため10月に成立した立法議会では共和派の勢力が増大し、立憲君主派のフイヤン派と、商工業ブルジョワを代表する共和主義者のジロンド派が対立した。革命の波及を恐れたオーストリア・プロイセンはピルニッツ宣言を出して革命への干渉を企てた。また国内で反革命の動きが活発になると、ジロンド派は勢力を強め、1792年の春に政権につくと、オーストリアに宣戦した。しかし、軍隊は士官に王党派が多数含まれていて戦意に欠け、オーストリア・プロイセン連合軍がフランス国内に侵入した。この危機に際し、立法議会は祖国非常事態宣言を発表し、義勇兵を募った。パリの民衆と全国から集まった義勇軍は、反革命を封ずるために、8月10日にテュイルリー宮殿を襲撃した(8月10日事件)。(革命の第2段階)
議会はただちに王権を停止し、新たな憲法をつくりなおすため男性普通選挙による国民公会の召集を決定した。国民公会は開会後ただちに共和制の樹立を宣言した。国民公会では、都市の民衆と結んだ急進的なジャコバン派(山岳派)が力を増し、1793年1月、ルイ16世を処刑した。(革命の第3段階)
これを機にイギリスのピット首相は列強を誘って第1回対仏大同盟を結成し、フランスを軍事的に包囲した。内外の危機のなかで1793年6月、ジャコバン派はジロンド派を国民公会から追放した。ジャコバン派はロベスピエールを中心にした公安委員会を軸に、すべての政敵と反革命の容疑者を断頭台に送る恐怖政治を展開した。また封建地代の無償廃止による小土地所有農民の形成、最高価格令など急進的諸改革を強行した。やがてジャコバン派は内紛をおこし、ロベスピエールはダントンらを粛清し権力を強めた。しかし1792年9月のヴァルミーの戦いの勝利のあと、戦況の好転で危機が緩和されると、独裁と経済統制に不満なブルジョワと保守化した農民は恐怖政治への反発を強めた。こうして社会的支持を失って孤立したロベスピエールに対して、1794年7月、テルミドールのクーデタがおこり、ロベスピエールは逮捕・処刑された。(革命の第4段階)
1795年、穏和な共和主義者が主導権を握って新憲法が制定され、総裁政府が樹立された。しかし総裁政府は、王党派の反乱や私有財産の廃止を主張するバブーフの反政府的陰謀に脅かされ、政局はきわめて不安定であった。(革命の第5段階)