ムワッヒド朝
A.D.1130〜A.D.1269
ベルベル人のイスラム改革運動を基盤として建設されたイスラム王朝。首都はマラケシュ。
現在のモロッコに興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシア州とほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。
ムワッヒド朝
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
西方イスラーム世界
モロッコにおこったムワッヒド朝(1130〜1269)は、ムラービト朝を倒すとマラケシュに首都を定め、さらにイベリア半島南部を支配下におさめた。経済の基礎は貿易路の支配にあったが、皮革をはじめとする手工業の発達も著しく、哲学・医学・文学などイスラーム文化が大いに栄えた。
イブン・ルシュドが、哲学者・医学者として活躍したのもこの王朝の時代である。しかし、このころイベリア半島では、キリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が高まり、ムワッヒド朝はナバス・デ・トロサの戦いで手痛い敗北を喫した。
ムワッヒド朝の敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
歴史
ムワッヒド朝の起源は、ベルベル人のマスムーダ族出身のイブン・トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある。
彼は現在のモロッコ南部、アトラス山脈の出身で、12世紀の初頭に東方への遊学とメッカ巡礼に出た。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要を感じたイブン・トゥーマルトは、帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判した。
1121年には故郷で自らが救済者(マフディー)であると宣言して、ムラービト朝に対する反乱を開始した。イブン・トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。
イブン・トゥーマルトが1130年に没すると、アブド・アルムーミンが後継者に就き、3代目のマンスールは自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アルムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした。アブド・アルムーミン以降、ムワッヒド集団はアルムーミンの子孫がアミール・アルムーミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる。
アブド・アルムーミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。
さらにムラービト朝の衰退後ムスリムの領土へと侵攻していたキリスト教徒たちとの戦いに積極的に乗り出し、イベリア半島のアンダルスやマグリブ東部にまで進出、アンダルスを支配下に置き、ズィール朝やハンマード朝を滅ぼして、マグリブのほとんど全域を支配するに至った。
アルムーミンの子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は、即位以前にセビーリャの統治者を務め、アンダルスに強い関心を持った。彼の治下では哲学者イブン・トゥファイルやイブン・ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた。
その子で第3代君主のヤアクーブ・マンスールの時代にはアルフォンソ8世(カスティーリャ国)を破って(アラコルスの戦い)、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したが、次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった。1212年、マンスールの子で第4代君主のムハンマド・ナースィルはコルドバの近郊でアルフォンソ8世(カスティーリャ国)らの率いる十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った。さらにナースィルの治世には本拠地のマグリブでもムワッヒド朝に対する反乱が起こった。既に宗教的な結束を失っていた有力者たちの間での内紛が激化して政治が混乱したが、1229年には、君主自らが布告を発し、タウヒード思想を放棄した。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した。
歴代君主
- アブド・アルムーミン(1130年 – 1163年)
- アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世(1163年 – 1184年)
- ヤアクーブ・マンスール(1184年 – 1199年)
- ムハンマド・ナースィル(1199年 – 1213年)
- ユースフ2世ムスタンスィル(1214年 – 1224年)
- アブドゥルワーヒド・マフルー(1224年)
- アブドゥッラー・アーディル(1224年 – 1227年)
- ヤフヤー・ムウタスィム(1227年 – 1235年)
- イドリース・マアムーン(1227年 – 1232年)
- アブドゥルワーヒド・ラシード(1232年 – 1242年)
- アブールハサン・サイード(1242年 – 1248年)
- ウマル・ムルタダー(1248年 – 1266年)
- イドリース・ワーシク(1266年 – 1269年)