ヴェルダン条約
843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めた条約。
この条約によって東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国が誕生し、それぞれ現在のドイツ、フランス、イタリアの原型が形成され、フランク王国は事実上解体された。
ヴェルダン条約
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ世界の成立
フランク王国の分裂
フランク人は慣習的に分割相続性をとっていたため、国王は常に分裂の危険をはらんでいた。
カール大帝には3人の男子があったが、第1子、第2子はすでに亡く、814年カール大帝の死とともにフランクの領土と帝位は第3子ルートヴィヒ1世(敬虔王)に継承された。
だが、ルートヴィヒ1世(敬虔王)の子にはロタール1世、ピピン1世、ルートヴィヒ2世のほかに、2度めの后との子シャルル2世(後の禿頭王)がおり、敬虔王がこの末弟を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829から833)。
こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父敬虔王が相つぎ亡くなると、長兄ロタール1世に対しルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、843年のヴェルダン条約で帝国は3つに分割された。
その結果、ロタール1世(西ローマ皇帝、中部フランク王)は帝位と中部フランクおよび北イタリアを、ルートヴィヒ2世(東フランク王)は東フランクを、シャルル2世(西フランク王)は西フランクをそれぞれ獲得した。
しかし855年、ロタール1世(西ローマ皇帝、中部フランク王)が亡くなると、ロタール1世の子と、ルートヴィヒ2世(東フランク王)、シャルル2世(西フランク王)の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で北イタリアをのぞく中部フランクは東西フランクに併合されることになった。
こうした分割と統合を経て、のちのイタリア、ドイツ、フランスの基礎がつくられたのである。