会議は踊る、されど進まず
ウィーン会議の様子( Jean-Baptiste Isabey画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain ❶プロイセン王国宰相ハルデンベルク ❷[議長]:オーストリア外相メッテルニヒ ❸イギリス外相カスルリー ❹フランス外相タレーラン ナポレオン戦争の戦後処理を行うため、1814〜15年にかけて開催されたウィーン会議の様子。革命勢力の抑制、安定した国際秩序の創出を主眼に、領土や外交上の制度が定められた。

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会議は踊る、されど進まず

ウィーン会議を風刺したことば。会議の円満な進行をめざしてオーストリア政府が舞踏会や宴会を開くが、利害が対立して審議が進まない様子を指した。

会議は踊る、されど進まず

会議を風刺したことば。会議の円満な進行をめざしてオーストリア政府が舞踏会や宴会を開くが、利害が対立して審議が進まない様子を指した。

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欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ウィーン会議
ウィーン会議
ウィーン会議(1814〜15)の風刺画 (元画像:fineartamerica

メッテルニヒ(オーストリア外相・1821〜宰相)を議長に開催されたウィーン会議で、オーストリア皇帝がヴェネツィア・ロンバルディアを獲得しようとするなど有力国が領土再編をめぐり権謀術数をつくしているさまが描かれている。「会議は踊る、されど進まず」といわれたこの会議は、タレーラン(フランス外相)の提唱した正統主義を原理に、大国間の利害一致・勢力均衡の観点から妥協が成立し、ウィーン議定書が結ばれた。 参考: 山川 詳説世界史図録

ナポレオン1世がエルバ島に流刑にされたあと、1814年4月第1次パリ平和条約が締結されたが、フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するために、1814年9月から15年6月にかけてウィーン会議 Wiener Kongrcss が開催された。この会議にはイギリスからはカッスルレー Castlereagh (1769〜1822)、フランスはタレーラン Talleyrand (1754〜1838)、ロシアからアレクサンドル1世 Aleksandr I (位1801〜25)、プロイセンからはハルデンベルク Hardenberg (1750〜1822)らが参加したが、司会をおこなったのはオーストリアの外相(のちの宰相)であるメッテルニヒ Metternich (1773〜1859)であった。各国の思惑と利害の対立は深刻であったので、「会議は踊る、されど進まず」という状態が続いた。

「会議は踊る、されど進まず」:会議は連日華麗な舞踏会や催し物が開かれ、全体会議は1回も開催されなかった。
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