北条早雲( A.D.1432〜A.D.1519)
戦国時代の戦国武将。堀越公方の足利茶々丸を滅ぼしてて伊豆を奪い、ついで相模に進出して小田原城を本拠とした。分国法「早雲寺殿廿一箇条」を制定し印判状による領国支配を構築。検地の実施と貫高制の採用など民政にも力を砕いた。室町幕府政所執事伊勢氏の一族とみる説がほぼ定説となっている。鎌倉幕府の北条氏と区別してのちの戦国大名の北条氏を後北条氏と呼ぶことがある。
北条早雲
堀越公方を倒し戦国時代到来を演出
早雲が実際の歴史の上にその名を現すのは1476年(文明8)、駿河の今川氏のもとにいた折、今川氏の家督争いに介入し、内紛を解決したときである。その功によつて早雲は、駿河国興国寺城を与えられ、一城の主となった。この時早雲は50代半ばであった。
その頃、足利政知が鎌倉公方に就任し、鎌倉に下ってきた。しかし政知は、古河公方として関東に勢力をはっていた足利成氏のために鎌倉に入れず、伊豆の堀越にとどまり堀越公方と呼ばれた。
1419年(延徳3)、足利政知が死ぬと、政知の後継の潤童子が異母兄の足利茶々丸に殺され、茶々丸が堀越公方となった。これにより堀越公方家は混乱した。隣国駿河でこの情勢を見ていた早雲は好機到来と見て、手勢500を率いて伊豆に侵入。茶々丸を急襲し御所を焼き、一夜にして伊豆国を乗っ取った。鮮やかな「国盗り」であった。
略年表
- 1432年 誕生(異説あり)
- 1476年 今川氏の家督相続争いを治める
- 1487年 駿河興国寺城城主となる
- 1491年 堀越公方茶々丸を襲い伊豆を手中に収める
- 1495年 小田原城を奪い相模に進出
- 1516年 三崎城を陥し、三浦氏を減ぼす
- 1519年 韮山城内で没する
ビジュアル版 日本史1000人 下巻 -関ケ原の戦いから太平洋戦争の終結まで
武家社会の成長
戦国大名の登場
戦国大名
関東では、応仁の乱の直前に、足利持氏の子で当時鎌倉公方であった足利成氏が関東管領上杉憲忠を殺害したことから享徳の乱がおこり、成氏は幕府からの追討を避けるために下総の古河に移った(古河公方)。将軍義政は成氏追討のために兄弟の足利政知を関東に派遣したが政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越に御所を構えた(堀越公方)。以後、鎌倉公方は古河・堀越の両公方に分裂し、関東管領上杉氏もまた山内・扇谷の両上杉家にわかれて争う状況となった。この混乱に乗じて、15世紀末、京都から下ってきた北条早雲(伊勢長氏・早雲庵宗瑞、1456〜1519)は、1493 (明応2)年、政知の死後に堀越公方を継いでいた足利茶々丸(?〜1498)を滅ぼして伊豆を奪い、ついで相模に進出して小田原城を本拠とした。その子北条氏綱(1487〜1541)は、相模に続いて武蔵を征服し、孫の北条氏康(1515〜71)のときには、北条氏は常陸·下野・安房などを除く関東の大半を支配する大名となった。
北条早雲
北条早雲は、伊勢新九郎長氏といい、入道して早雲庵宗瑞と称した。早雲は後世の俗称で、同氏が北条を名乗り始めるのは実は子の氏綱のときからである。早雲の素姓については最近では、室町幕府政所執事伊勢氏の一族とみる説がほぼ定説となっている。なお、鎌倉幕府の北条氏と区別してのちの戦国大名の北条氏を後北条氏と呼ぶことがある。
同時代の人物
マルティン・ルター (1483〜1546)
神聖ローマ帝国(ドイツ)の神学者、教授、作家、聖職者。1517年、教皇の贖宥状しょくゆうじょう販売を批判し「九十五カ条の論題」を公表したことが「宗教改革」の発端となる。新約聖書のドイツ語訳を完成させる。