大内義隆 おおうちよしたか( A.D.1507〜A.D.1551)
大内氏第31代当主。中国・九州(周防・長門・安芸・石見・備後・豊前・筑前)7ヵ国の守護大名。戦国大名。日明貿易・日朝貿易を統轄し、その富から山口は「西の京」とも言われる。守護代陶晴賢の謀叛で自害。
大内義隆
国際都市・山口の主
中国地方の守護大名・戦国大名。周防山口を本拠に北九州にも勢力を仲ばす。出雲尼子氏、豊後大友氏などを主要な敵としたが、家臣の陶晴賢に反逆され自害。義隆の治める山口は、京の公家や文化人、フランシスコ=ザビエルら宣教師、明(王朝)・朝鮮の商人が訪れる国際都市として賑わった。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
戦国大名の登場
戦国大名
大内義隆:中国・九州の7カ国守護、日明・日朝貿易も統轄し、その富から山口は「西の京」とも言われる。守護代陶晴賢の謀叛で自害。
中国地方では守設大名として強勢を誇った大内義隆(1507〜51)が、16世紀半ばに重臣陶晴賢(1521〜55)に国を奪われ、さらに安芸の国人からおこった毛利元就(1497〜1571)が陶氏を滅ぽして大内氏の旧領を奪った。
南蛮貿易とキリスト教
南蛮貿易は、キリスト教宣教師の布教活動と一体化して行われていた。1549(天文18)年、日本布教を志したイエズス会(耶蘇会)の宣教師フランシスコ=ザビエル(1506〜52)が鹿児島に到着し、大内義隆・大友義鎮(宗麒、1530〜87)らの大名の保護を受けて布教を開始した。当時ヨーロッパでは宗教改革によるプロテスタントの動きが活発であったが、カトリック側も勢力の挽回をはかって、アジアでの布教に力を入れる修道会も多かった。その一つがイエズス会である。日本では当時キリスト教をキリシタン(吉利支丹・切支丹)宗・天主教・耶蘇教などと呼び、宜教師をポルトガル語のパードレから転じたバテレン(伴天連)の名で呼んだ。