島原の乱( A.D.1637〜A.D.1638)
打ち続く飢饉であるにもかかわらず、島原城主や天草領主が領民に過酷な年貢を課し、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した百姓一揆。島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で、一揆勢のなかにもキリスト教徒が多かった。16歳の天草四郎時貞を首領にいただき、一揆勢3万余りは原城跡に立てこもったが、幕府の大軍により鎮圧された。この影響から幕府のキリスト教に対する警戒心がさらに深まり、鎖国を促進した。
島原の乱
幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
禁教と寺社
幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根だやしにするため、とくに信者の多い九州北部などでイエス像·マリア像などを表面に彫った真鍮製の踏絵を踏ませる絵踏を行わせた。さらに禁教を推し進めるために、1640(寛永17)年には幕領に宗門改役をおき、1664(寛文4)年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された。
ところで一向一揆が弾圧されたのち、キリスト教も日蓮宗不受不施派も幕府によって禁圧されたのは、これらの宗教がいずれも幕藩権力=王権よりも宗教を優越させる信仰をもっていたからである。近世では、幕藩権力にしたがう宗教のみが存在を許容されることになった。
幕府は、これらの禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、寺請制度を施行した。誰もが檀那寺をもち、仏教は主たる宗教となった。
鎖国政策
1637(寛永14)年から翌年にかけておこった島原の乱の影響から、幕府のキリスト教に対する警戒心はさらに深まり、1639(寛永16)年、ポルトガル船の来航を禁止した。さらには、平戸にあったオランダ商館を1641(寛永18)年に長崎の出島に移し、唯一残されたヨーロッパ人であるオランダ人と日本人との自由な交流を禁止して、長崎奉行の厳しい監視のもとにおいた。こうして東アジアを舞台に展開してきた日本の貿易船やスペイン・ポルトガル・イギリス・オランダ商人の活動を統制する一方、幕府は中国(明朝)との国交を回復させようと、朝鮮(李氏朝鮮)や琉球を介して交渉したが明(王朝)からは拒否された。しかし、中国の民間商船も活動はヨ一ロッパ勢に劣らず活発で、九州各地に訪れていた。もはや中国との正式な国交回復を断念した幕府は、中国船との私貿易を長崎に限定して統制下におき、そのほかの場所での貿易は密貿易として禁止した。こうして、いわゆる鎖国の状態となった。