明治六年の政変 (征韓論政変) A.D.1873〜
1873年の征韓論争により、政府内が分裂した政変。西郷・板垣らがとなえた征韓論は、内治優先論(国内政治の優先)を説く大久保・木戸ら内治(優先)派の反対で実現せず。征韓派は一斉に下野。これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれる。
明治六年の政変
1873年の征韓論争により、政府内が分裂した政変。西郷・板垣らがとなえた征韓論は、内治優先論(国内政治の優先)を説く大久保・木戸ら内治(優先)派の反対で実現せず。征韓派は一斉に下野。これ以後、大久保が政権を指導し、大久保政権と呼ばれる。
近代国家の成立
明治維新と富国強兵
初期の国際問題
幕末以来、朝鮮は鎖国政策を取り続け、明治政府の交渉態度に不満をいだき、日本の国交要求を再三拒否した。そのため日本国内では、武力を背景に朝鮮に対し強硬方針をもってのぞむべきだとする征韓論が高まった。政府部内でも西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平(1834〜74)・副島種臣(1828〜1905)らの参議がいわゆる征韓論を唱え、1873(明治6)年8月には、西郷隆盛を使節として朝鮮に派遣して交渉にあたらせ、国交要求が入れられなければ、兵力を送り、武力に訴えても朝鮮の開国を実現させるという方針を内定した。
この征韓論は同時に、政府に強い不満を抱き、朝鮮への積極的進出に期待をかけ、それを望んでいる士族層をなだめ、彼らの矛先を海外に向けさせるためでもあった。
しかし、1873(明治6)年9月、岩倉具視一行が帰国すると、欧米先進列強の著しい発展をみてきた大久保利通・木戸孝允らはあくまで内治の整備が先決であるとして征韓論に強く反対し、結局、同年10月、初めの方針は取り消され、西郷ら征韓派の参議は一斉に辞職した(明治六年の政変)。
新政府への反乱
廃藩置県・徴兵制度・秩禄処分など相つぐ改革によって、封建的諸特権をつぎつぎと奪われた士族たちの間でも、政府への不満の気運が充満していた。明治六年の政変に際して、征韓派に与して、政府を辞職した板垣退助ら旧参議の多くは、1874(明治7)年、民撰議院設立の建白書を提出して、政府の「有司専制」を鋭く攻撃したが、そのなかの一人江藤新平は郷里佐賀に帰って、同年、不平士族に擁立され征韓党の首領となって反乱をおこした(佐賀の乱)。このころから、政府の取締りは一段と厳しくなり、1875(明治8)年には、反政府的言論活動をおさえるため、讒謗律・新聞紙条例を発布した。