細川勝元 (
A.D.1430〜A.D.1473)
室町時代の武将・守護大名。室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。第11代細川京兆家当主。
16歳の若さで管領に就くものの、山名氏と対立。応仁の乱勃発の一因を成す。一方、石庭で有名な龍安寺をつくるなど文化人としての素養もあった。応仁の乱の東軍総大将。
細川勝元
多芸多才な文化人だった応仁の乱の東軍総大将
勝元の出世を助けた名門の出自と多芸多才
13歳で家督を相続した細川勝元は、16歳の若さで管領に就任。名門ゆえの早い出世であった。他方、勝元は多くの才能にも恵まれた。自ら医書を記すほど医術に詳しく、絵画・和歌・猿楽など文芸の素養もあった。多芸多才は、将軍足利義政の歓心を買うことに大いに役立った。
勝元が管領となった当時、幕政は前管領・畠山持国が牛耳っていた。勝元は、持国に対抗するために山名宗全に接近。宗全の娘を妻に迎えるなど同盟関係を強化して、畠山に拮抗する勢力をなすことに成功した。
しかし、畠山を押さえつけたものの、急速に権勢を増す宗全を、勝元は危険視するようになる。やがて両者の関係は悪化。1467年(応仁1)、宗全が将軍義政に強要して、勝元に近い畠山政長から管領の職を奪うにいたっては勝元も座視できず、ついに武力衝突となった。
緒戦は、数に勝る勝元の東軍が有利だったが、西軍に周防の守護・大内政弘が合流すると戦況は膠着。当事者である勝元や宗全でさえコントロールできない状態となっていった。戦端が開かれてから5年。どちらが勝利するとも判然としないなか、1473年(文明5)3月に宗全が病死。5月、勝元もまた宗全を追うように病死した。両者の死は、戦乱そもそもの原因を曖味なものとした。ふたりの代表者を失うも競り合いは続き、京の町は灰儘に帰したのである。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
幕府の衰退と庶民の台頭
幕府の動揺と応仁の乱
京都では、将軍権力の弱体化に伴い幕府政治の実権が有力守護に移っていくなかで、約1世紀に及ぶ戦国時代の口火を切った応仁の乱(応仁・文明の乱)がおこった。まず管領家の一つ畠山氏で、父畠山持国から家督を譲られた畠山義就(?〜1490)に対し、反義就派の家臣が一族の畠山政長(1442〜93)を擁立して対立し、ついで斯波氏でも惣領の斯波義健(1435〜52)が後継のないまま死去したため、一族から迎えられた斯波義敏(1435?〜1508)と九州探題渋川氏の一族から迎えられた斯波義廉(1447〜?)が家督を争うなど、幕府の管領家にあいついで内紛がおこった。将軍家でも8代将軍足利義政(1436〜90)が弟足利義視(1439〜91)を後継者と定めた翌年、義政の妻日野富子(1440〜96)に足利義尚(1465〜89)が誕生したことから、両者の間に家督相続争いがおこった。そして当時、幕府の実権を握ろうとして争っていた細川勝元(1430〜73)と山名持豊(宗全 1404〜73)が、それぞれ義視と義尚を支援したために対立が激化し、何度かの小競り合いを繰り返したのち、1467(応仁元)年5月に全面的な戦闘状態に入った。
1468(応仁2)年11月、当初東軍にかつがれていた足利義視が将軍邸を抜け出し、西軍に走ったことから、西軍では義視を将軍に立てて幕府としての陣容をととのえ、ここに東西二つの幕府が成立することになった。以後、戦況は膠着状態に入るが、主戦場となった京都の町は戦火や足軽の乱暴によって荒廃するとともに、争乱は地方へと広がつていつた。応仁の乱はその後、1473(文明5)年に両軍の大将であった山名持豊・細川勝元があいついで死去したことから和睦の気運が高まり、1477(文明9)年に主戦派であつた畠山義就・大内政弘が下国するに及んで、戦いに疲れた両軍の間に和睦が結ばれた。こうして京都の戦いには一応の終止符が打たれ、守護大名の多くも領国に下ったが、争乱はその後も地域的争いとして続けられ、全国に広がっていった。この争乱により、有力守護が在京して幕政に参加する幕府の体制は崩壊し、同時に荘園制の解体も進んだ。
龍安寺
「石庭」として知られる枯山水の方丈庭園で有名な龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で、応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450年)に創建した禅寺。世界遺産「古都京都の文化財」に含まれている。