聚楽第 じゅらくてい
豊臣秀吉が関白の政庁·公邸として築いた城郭。1586年2月本丸の北東隅を平安京大内裏の北東隅に合わせて築城を始めた。12月に秀吉は太政大臣になり、豊臣姓を賜る。1587年9月正式に聚楽第に移り、翌年4月後陽成天皇の行幸を迎え、天皇の面前で諸大名に秀吉への忠誠を誓わせ、豊臣政権の確立を天下に宣言した。1591年関白の地位と聚楽第を甥の秀次に譲ったが、実子秀頼が誕生すると両者の対立が表面化し、謀反の疑いで秀次が切腹させられると、聚楽第は秀吉の命によって破壊され、御殿などは伏見城に運ばれた。
聚楽第
天皇を迎えた豊臣秀吉
後陽成天皇の行幸
1584年(天正12)の小牧・長久手の戦いに敗れて関東の武力統ーに失敗した秀吉は、朝廷を利用した統一へと戦略を転換した。1585年(天正13)7月11日に自らは関白に就任し、諸大名や家臣を古代以来の官制に編成して政権を樹立していった。
聚楽第を南東から見た鳥諏図。1843年(天保14)に名倉希言が海北友松筆の「緊楽古城之図」を縮小して写し、独自の考証と推定を加えて描いたもの。
名倉希言が「豊公築所聚楽城之図」を平面図に表したもの。周囲には「諸国古城之図」などの縄張図をもとにして堀跡や町名が記入されている。
聚楽第の歴史の中で最も重要なイベントは、1588年(天正16)4月14日から5日間にわたって行われた後陽成天皇の聚楽第行幸である。行幸列は長大で、先頭が聚楽第に到着した時に最後尾はまだ御所を出発していなかったとされる。臣下の邸宅への行幸、1437年(永享9)の後花園天皇の室町幕府6代将軍足利義教邸行幸以来、151 年ぶりのことで、沿道を埋めた多数の見物人は、秀吉政権の力を強く印象付けられたことであろう。行幸の2 日目には、諸大名に秀吉の命に背かない旨を誓約した起請文を提出させた。これによって、秀吉政権が名実ともに成立したが、聚楽第はその舞台装置として築かれたといっても過言ではない。
豊臣秀次の切腹
後陽成天皇の行幸列が聚楽第に向かう様子を南東側から描いた図。天皇は屋根に鳳凰の飾りをつけた鳳輦(輿)に乗り、うしろに公卿衆などが続く。
1591年(天正19)12月に甥の豊臣秀次が関白に就任すると、関白の居城である聚楽第の城主も秀次となり、翌年1月には秀次が後陽成天皇の行幸を迎えている。秀吉は伏見指月に築いた隠居屋敷に移り、母である大政所の葬儀も秀次を名代に執行させるなど、権力の移譲を図っていたようであるが、1593年(文禄2)に実子豊臣秀頼が誕生すると、両者の対立が表面化することになる。1595年(文禄4)7月、謀反の疑いで石田三成・増田長盛らの詰問を受けた秀次は、関白・左大臣の官職を剥奪されて高野山へ追放された。ほどなく秀次が切腹させられると、聚楽第は秀吉の命によって破壊され、御殿などは伏見城に運ばれた。『日本西教史』に「基礎にいたるまで悉く毀たしめ」と記されているように、地上の構造物は壊されほぼ完全に失われた。
四角形を組み合わせたシンプルな縄張
天下人となった秀吉は天皇家の権威を利用するために旧平安宮に合わせて聚楽第を築いた。
幻の城
聚楽第は豊臣秀吉によって1586年(天正14)から築かれたが、秀次事件ののち秀吉によって徹底的に壊された。秀次事件とは、1595年(文禄4)に起きた、秀吉が甥にして関白の豊臣秀次に謀反の疑いをかけ、切腹させた事件である。さらに聚楽第は、現在の京都の市街地に位置するため、地表にほとんどその痕跡をとどめていない。そのため、かつて聚楽第は幻の城ともいわれていたが、1991年に行われた発掘調査で幅約40mと推定される本丸東堀の遺構が見つかったことをきっかけに研究が進み、1998年には縄張を堀跡の推定位置という形で地図上に示すことができるようになった。2012年末には想定された位置から本丸南堀の石垣が延長32mにわたって発見された。石垣花巌岩を中心とする長辺lmほどの自然石を巧みに組み合わせて約55゜の緩い勾配で築かれており、天正(1573〜92)後半期の石垣の基準例となる重要な発見であった。
方形館の系譜
発掘調査の成果を中心に、文献・絵画資料も用いて堀の位置を推定したもの。本丸南堀の石垣も推定位置で見つかった。
内裏に建設
緊楽第は平安宮の北東隅に造られた。「内野」という土地のもつ権威を意識して選地されたのであろう。
秀吉は小牧・長久手の戦いの敗戦を契機に、武力による天下統ーから朝廷の権威を背景にした天下統ーヘと方針を変更した。そして関白に就任した秀吉にとって、聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎え、天皇の面前で諸大名に秀吉への忠誠を誓わせることは、秀吉政権の確立を天下に宣言する重要な儀式であった。この儀式の舞台である聚楽第の立地として、平安時代の王権の所在地が選ばれたのである。聚楽第の位置は、戦略的な目的から決められたのではなく、政治的な目的から決められたということができるだろう。聚楽第行幸の様子は絵画に描かれ、また『聚楽第行幸記』として記録されて宣伝された。
幕藩体制の確立
織豊政権
豊臣秀吉の全国統一
大坂城
信長の築いた安土城は、琵琶湖にのぞむ安士山上に5層7階の華麓な天守をもち、近世的城郭の初めであった。しかし、信長は早くから大坂の地に目をつけ、石山本願寺に城地として引き渡し方を求めていた。信長の遺志を継いだ秀吉は、1583(天正11)年から3年がかりで大坂城を完成させ、京都の聚楽第(聚楽第破却後は伏見城)につぐ豊臣政権の政庁として用いたが、石垣の長さは3里8町にも及び天守は51層9階、下から3階までは石垣のなかにあり内部は金箔で飾るという豪壮華麗なものであった。ここを訪れたイエズス会の宣教師たちは、秀吉自らの案内を受けて天守まで登ったが、黄金の組立て茶室をはじめ、綺羅充満するみごとさに思わず感嘆の声をあげたという。築城当時、宣教師たちは毎日石を積んだ船約1000艘が大坂に入ってくる有様を眺めたというが、現在残る50畳敷余りの「肥後石」や、38畳敷の「たこ石」などは、築城に費やされたたおびただしいエネルギーを象徴している。もっとも、この城は大坂の役で焼亡し、現在の大坂城の城地は、江戸時代初期に豊臣氏のそれの上に約10mの盛土をして再築されたものの遺構であり、ここに1931(昭和6)年に鉄筋コンクリートの天守が復元された。その後1996〜97(平成8〜9)年の大改修工事によって屋根飾りの金箔も押し直され、また最新の耐震構造を備えた現在の天守に生まれかわったのである。
秀吉は、信長の後継者としての道を歩みながらも、軍事的征服のみに頼らず、強力な軍事カ・経済力を背景に、伝統的支配権を利用して新しい統一国家をつくりあげた。1588(天正16)年、秀吉は京都に新築した聚楽第に後陽成天皇(在位1586〜1611)を迎えて歓待し、その機会に諸大名に天皇と秀吉への忠誠を誓わせた。ついで全国統一を終えた1591(天正19)年、秀吉は関白の地位を甥の豊臣秀次(1568~95)にゆずるとともに緊楽第を与えたが、その後秀吉に実子豊臣秀頼(1593〜1615)が誕生したことから秀次との関係が悪化し、1595(文禄4)年、謀反を企てたという理由で秀次を処刑した。聚楽第もこのときに破却され、以後、豊臣政権の政庁は秀吉が隠居城として新築した伏見城に移った。
桃山美術
また、城郭とならんで聚楽第などの殿舎も建造された。これらの内部の襖、壁・屏風には、金箔地に青、緑を彩色する濃絵(金碧画)の豪華な障壁画(障屏画)が描かれ、欄間には、透し彫の彫刻がほどこされていた。当時の建築物はいずれも現存せず、伏見城の一部を移築して建てられた都久夫須麻神社本殿や、聚楽第の一部を移築したと推定される大徳寺唐門・西本願寺飛雲閣などにわずかな遺構をとどめるにすぎない。