自由主義 Liberalism
個人の自由を尊重し、それを集団や国家に優先させようとする思想。19世紀にはブルジョワ階級を中心に広まり、参政権獲得、所有権の確立、経済活動の自由などが追求された。
自由主義
個人の自由を尊重し、それを集団や国家に優先させようとする思想。19世紀にはブルジョワ階級を中心に広まり、参政権獲得、所有権の確立、経済活動の自由などが追求された。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
ヨーロッパ主権国家体制の形成
覇権国家オランダ
圧倒的な経済競争力を背景に自由主義的な政策を採用したため、オランダには商人ばかりか本国でうけいれられない芸術家や知識人・亡命者などが、ヨーロッパ各地から集まった。海洋の自由を説いたフーゴー・グロティウス(1583〜1645)や、哲学者のバールーフ・スピノザやフランス人ルネ・デカルト、画家レンブラント・ファン・レインなどが活躍した。特に、グロティウスの『海洋自由論』は、重商主義の保護政策とは正反対の方向をとっており、いわば世界頂点にたち、ヘゲモニーを握った国にとって有利な主張でもあった。19世紀のイギリスや、20世紀中頃のアメリカが、自由主義を旗印にしたのも、同様の理由からである。
危機の時代の主権国家
ロシアの台頭
18世紀後半になると、女帝エカチェリーナ2世(位1762〜1796)が登位した。啓蒙専制君主として、ヴォルテールらとも親交のあったエカチェリーナ2世は、国内では、特権を認可して貴族と協力関係を強め、都市にも自治権を与え、経済活動の促進をはかったが、農奴制には手をつけなかった。それどころか、プガチョフ(1742〜1775)の率いる大農民反乱(プガチョフの乱 1773〜1775)を鎮圧したのちは、かえって農奴制を拡大・強化した。とくにフランス革命勃発後は、反動的になって自由主義思想を弾圧したといわれている。アメリカ独立戦争では武装中立同盟を提唱したほか、南方では2度にわたってオスマン帝国と戦って、クリミア半島など黒海沿岸を奪った(ロシア=トルコ戦争)。この結果、黒海はロシアの内海となった。
17〜18世紀のヨーロッパ文化
経済思想
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
旧制度のフランス
特権階級には古い家柄の旧貴族に、平民出身の新貴族が加わっていた。富裕市民の一部が土地や爵位を手に入れ貴族になりあがったのである。官職を買収して世襲した新貴族には、高等法院の判事など「法服貴族」もいた。新貴族と旧貴族の対立もあったが、貴族には銀行業・貿易業など経済分野で活躍するものもいた。貴族と市民上層部は、エリートとしてある種の均質性も形成しつつあった。自由主義的な貴族とブルジョワ市民が啓蒙思想のメッセージをもっともよく理解し、反体制運動を指導し、連帯した。フランス絶対王政はこうしたエリート層をコントロールできなくなっていた。
革命の進展
8月26日、国民議会は自由主義的貴族のラ=ファイエット La Fayette(1757〜1834)らが起草した17条からなる「人権宣言」を採択した。正式には「人間と市民の権利の宣言」というこの宣言は、人間の自由・平等の権利、自由・財産の安全および圧政に対する抵抗の権利、国民主権、法の支配、言論・出版の自由、私有財産の不可侵など近代市民社会の基本原則を確認している。
欧米における近代国民国家の発展
ナポレオンの大陸支配が崩壊し、変わって正統主義と各国の勢力均衡を原則とする保守的なウィーン体制が19世紀はじめに生まれた。この体制は、各国の自由主義や国民主義(ナショナリズム)運動を抑圧したことから、騒乱が頻発した。1810〜20年代にかけてラテンアメリカやギリシアで独立運動が展開され、フランスの七月革命(1830)・二月革命(1848)とその影響をうけた各国の革命運動をへて、ウィーン体制は動揺・崩壊した。一方、イギリスは「世界の工場」としての経済的優位を背景に、いち早く国内の自由主義的改革や外交を実行し、ブルジョワジーが主導する社会に転換した。
ウィーン体制
ウィーン会議
議定書では、
- フランス・スペイン・ナポリではブルボン家が復位する。
- ローマ教皇領が復活し、サルデーニャはサヴォイア・ジェノヴァを獲得する。
- ポーランドの大部分にはロシア皇帝を王とするポーランド立憲王国が成立する。
- プロイセンはザクセンの一部とライン左岸を獲得する。
- 神聖ローマ帝国は復活させず、35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦を構成する。
- イギリスはオランダからセイロン(スリランカ)とケープ植民地を、そして戦時中占領した地中海のマルタ島を獲得する。
- オランダは海外の植民地を喪失した代償に南ネーデルラント(ベルギー)を獲得する。
- オーストリアは南ネーデルラントを喪失した代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得する。
- スウェーデンはフィンランドをロシアに、西ポンメルンをプロイデンに割譲するかわりにノルウェーを獲得する。
- スイスを永世中立国とする。
ということが決められた。この決定では自由主義・国民主義に対する配慮はなされず、メッテルニヒの方針は貫徹され、保守反動の国際体制が生まれた(ウィーン体制)。
- ウィーン会議 – 世界の歴史まっぷ
ウィーン体制の動揺
ウィーン体制は、ナポレオンによって高揚されたナショナリズム運動や自由主義運動を抑圧するものであったため、各地で抵抗運動がおきた。
ドイツ連邦では、1815年イエナにおいてブルシェンシャフト Burschenschaft (学生組合)が結成され、ドイツの各大学に普及して、17年の宗教改革300年祭をきっかけとしたヴァルトブルクの森での集会で頂点に達した。この自由主義運動に警戒心をもった国家君主とメッテルニヒは、カールスバートにおいて運動弾圧の決議をおこない、学生組合は解散させられ、思想統制が徹底された(ブルシェンシャフト運動)。
イタリアでは、1820年から21年にかけて秘密結社のカルボナリ Carbonari が、ピエモンテやナポリにおいて革命運動をおこした(カルボナリの反乱)。
スペインでは1820年、立憲革命のためのリェーゴ Riego (1785〜1823)を指導者とする軍隊の反乱がおき、フェルナンド7世(スペイン王) Fernando VII (位1808, 14〜33)に憲法の制定を承認させたが、五国同盟による干渉軍によって抑圧された(スペイン立憲革命)。
さらに、ロシアでは反動的なニコライ1世 Nikolai I (位1825〜55)の即位に反対してデカブリスト Dekabrist による反乱がおきたが、短期間に鎮圧された(デカブリストの反乱)。
1820年までのこうしたヨーロッパの自由主義・国民主義運動は、ことごとくウィーン体制のまえに屈服した。
ラテンアメリカの独立
国際情勢が有利に展開したことも独立運動成功の一因であった。メッテルニヒはラテンアメリカの独立運動がヨーロッパのナショナリズムを刺激することを恐れて干渉したが、ラテンアメリカを産業資本の市場として確保しようとしたイギリスは、外相G.カニングが四国同盟(フランス加盟後は五国同盟)とは一線を画し、自国の経済的利益を優先する方針をとり、自由主義外交を展開して干渉を牽制した。さらにヨーロッパ諸国の進出に警戒心をもち、ラテンアメリカに対する影響力を確保しようとするアメリカ合衆国大統領モンローが、1823年ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を提唱するモンロー教書(宣言)を発表したことも、メッテルニヒの干渉を失敗に終わらせることになった。
ブラジルでは、ナポレオンの進出のためブラジルに亡命したドン=ペドロ(位1822〜31)(ペドロ1世(ブラジル皇帝))を皇帝としてブラジル帝国が1822年成立し、武力によらずに独立を達成することになった。そして1824年立憲君主政の憲法を制定した。メキシコでは1810年、神父イダルゴによるインディオ農民を指導した武力蜂起が開始され、19年帝国として独立し、24年共和国となった。しかし、独立後も教会や伝統的地主の勢力が強く、国内の自由主義化は進まなかった。
七月革命とその影響
市民は7月27日にパリにおいて決起し、「栄光の3日間」といわれる戦闘がおこなわれて、国王側は敗北した。革命派内部では共和派と立憲王政派との対立があり、その妥協策として自由主義者として知られていたオルレアン家のルイ=フィリップ Louis-Philippe (位1830〜48)が国王(「フランス国民の王」)となり、やや緩和された制限選挙制の立憲君主政が成立した。これを七月王政という。
二月革命とその意義
二月革命では労働者が政治世界に登場し社会変革を志向するようになり、産業資本家との政治・経済面での対立が深刻化し、さらにヨーロッパ各国に影響を与えて各国のナショナリズムや自由主義運動を高揚させたことから、西欧と東欧の相違が顕在化し、19世紀初頭に成立したウィーン体制は完全に崩壊した。
1848年の革命
ドイツ
ドイツでは、1848年3月、ベルリンにおいて暴動が発生したため(ベルリン三月革命)プロイセン国王は譲歩し、自由主義内閣が成立した。しかしフランクフルト国民議会の長期化、フランスの六月暴動の鎮圧など8月をさかいに反動化が進み、11月制憲議会も弾圧されて革命は失敗に終わった。議会の同意を必要としない国王の無期限議会解散権や戒厳令の施行を定めた欽定憲法の草案が発表され、わずかな修正をへて最終的には1850年に成立した。一方、フランクフルト Frankfurt では地主・大学教授・資本家など自由主義者を中心にして全国から「統一と自由」を求めて国民会議が48年5月開催されたこれをフランクフルト国民議会という。この会議ではプロイセン国王を統一国家の王とする小ドイツ主義とオーストリアのハプスブルク家を王とする大ドイツ主義が対立し、紛糾を続けた。48年12月にドイツ国民の基本権を、49年3月にはドイツ国憲法を制定し、さらに小ドイツ主義の立場が採択されてフリードリヒ=ヴィルヘルム4世(プロイセン王) Friedrich Wilhelm Ⅳ (位1840〜61)にドイツ国王に即位するよう要請したが、彼は革命派からは王冠はうけられないとしてこれを拒否したため行き場を失い、49年6月になると武力弾圧によって解散させられた。
オーストリア
オーストリアではウィーンにおいて三月暴動が発生し(ウィーン三月革命)、ウィーン体制の象徴的人物であったメッテルニヒが失脚し、イギリスに亡命した。宮廷は困惑し、憲法制定を発布し自由主義的改革を約束したが、反動勢力の成功を背景に反撃に転じて10月までには運動を鎮圧した。
ヨーロッパの再編
東方問題とロシアの南下政策
ロシアは国内の改革を進めたが、改革の不徹底もあって国民の目をそらすために対外進出の必要があった。一方、イギリスやフランスは外債や鉄道利権を通じてオスマン帝国に対する支配を強化していた。しかもオスマン帝国内での改革運動も決して成功していたとはいえず、バルカン半島では諸民族の自由主義の影響による独立運動がさかんになっていた。1870年からのプロイセン=フランス戦争でナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。
- 東方問題とロシアの南下政策 – 世界の歴史まっぷ
イギリスのヴィクトリア時代
グラッドストンは小英国主義をとって植民地の拡大に反対し、アイルランド問題では小作人を保護する土地法案を成立させ、さらにアイルランド人の自治を認めるアイルランド自治法案を議会に提出したが、保守党の激しい反対にあって流産した。また彼は国内の自由主義的改革を推進し、1870年教育法を制定して公立学校の増設を進めて国民教育の増進をはかり、71年労働組合の法的地位を認めた。さらに秘密投票制の実施など国内の改革に努めた。
フランス第二帝政と第三共和政
1851年クーデタをおこしたルイ=ナポレオンは、翌52年国民投票によって皇帝に即位し(ナポレオン3世 位1852〜70)、第二帝政が始まったが、労働者・資本家・農民の3勢力の均衡を絶えず考慮しなければならなかった。最初、専制帝政(権威帝政 1852〜60)と呼ばれる皇帝権力が強いものであったが、イタリア統一戦争への介入やイギリスとの通商条約締結をきっかけとして自由主義運動が高揚したため、ナポレオン3世は議会に対して譲歩するようになり、元老院や立法院に質問権を与えたり、労働者の団結権を認めたり、集会法や出版法を緩和したりした(自由帝政 1860〜70)。しかし国民の体制批判は高まる一方で、69年の選挙で反対派が大幅に進出したので、70年新憲法が制定され議会帝政が成立した。
イタリアの統一
19世紀前半の統一運動の挫折を冷静に分析し、その後の道を切り開いたのが、サルデーニャ王国のヴィットーリオ=エマヌエーレ2世(位サルデーニャ王1849〜61, イタリア国王1861〜78)と、その協力者であり自由主義者として知られていたカヴール(1810〜61)であった。両者は産業の開発、修道院への課税など国内の近代化を進めるだけでなく、マッツィーニのような国際関係を無視した運動では統一は実現できないと考え、フランスのナポレオン3世に接近した。
北ヨーロッパ諸国の動向
スウェーデン
18世紀初頭の北方戦争に敗北し、バルト海の覇権を喪失したスウェーデンは、北ドイツの領土もプロイセンに奪われ、ヴァーサ家の絶対王政体制に不満が高まって、自由主義の時代を迎えた。
アメリカ合衆国の発展
合衆国の対外発展とメキシコ
イギリスとスペインは撤退したが、ナポレオン3世だけはメキシコへの野心を実現すべく賠償額が決定されていないという理由で62年さらに軍隊を増派し、64年オーストリアのマクシミリアン(位1864〜76)を皇帝にすえた。メキシコ人は自由主義派のフアレスを先頭に抵抗し、また南北戦争を終結させた合衆国もモンロー教書にもとづき強硬にナポレオン3世に抗議したので、フランス軍は撤退し、マクシミリアン(メキシコ皇帝)は67年銃殺刑にされた。