イタリア王国(中世) 東フランク王国 西フランク王国
870年メルセン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ

西フランク王国


西フランク王国
843年のヴェルダン条約でフランク王国を3つに分裂されて成立した王国。現在のフランスの領域にあたる。987年にルイ5世の夭折をもってカロリング家の血統は断絶し、ロベール家の血を引くユーグ・カペーが即位し、フランス王国カペー朝を開く。首都はパリ。

  • 843年: ヴェルダン条約 シャルル2世(西フランク王)
  • 870年: メルセン条約
  • 880年: リブモント条約 ルイ3世(西フランク王)
  • 987年: カロリング朝断絶 ルイ5世(西フランク王)
  • 987年: カペー朝フランス王国成立 ユーグ・カペー(フランス王)

西フランク王国

西フランク王国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

フランク王国の分裂

フランク人は慣習的に分割相続制をとっていたため、王国は常に分裂の危機をはらんでいた。カール大帝には3人の男子があったが、第1子・第2子はすでに亡く、814年カール大帝の死とともにフランクの領土と帝位は第3子ルートヴィヒ1世(敬虔王)に継承された。
だが、ルートヴィヒ1世にはロタール1世・ピピン1世・ルートヴィヒ2世の他に、2度目の后との子シャルル2世(のちの禿頭王)がおり、ルートヴィヒ1世がこの末弟を偏愛したことから、3人の兄たちの反乱を招いた(829年〜833年)。こうした混乱の中で、838年にピピン1世、840年に父帝ルートヴィヒ1世が相次ぎ亡くなると、長兄ロタール1世に対しルートヴィヒ2世とシャルル2世が連合して戦い、843年のヴェルダン条約で帝国は3つに分割された。
その結果、ロタール1世は帝位と中部フランク及び北イタリアを、ルートヴィヒ2世は東フランクを、シャルル2世は西フランクをそれぞれ獲得した。
しかし、855年にロタール1世が亡くなると、ロタール1世の子とルートヴィヒ2世、シャルル2世の間で争いが再燃し、結局870年のメルセン条約で、北イタリアを除く中部フランクは東西フランクに併合されることになった。こう下分割と統合を経て、のちのイタリア・ドイツ・フランスの基礎が作られたのである。
東フランク王国
843年ヴェルダン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ
東フランク王国
870年メルセン条約による分裂 ©世界の歴史まっぷ

西フランク

西フランク王国(フランス)でも、シャルル2世(禿頭王)の晩年から政情が乱れ、フランキア・ネウストリア・ブルゴーニュ・アキテーヌ・フランドルなど大諸侯がしだいに豪族化していった。その頃西フランクを悩ませたのがノルマン人の侵入であった。
すでに9世紀前半から沿岸部に来航していたが、同世紀半ばにはセーヌやロワールの河口に定住し、川をさかのぼって内陸部にも侵入するようになった。
885年、セーヌ川中流のパリがロロ(徒歩王)率いるノルマン人に攻囲された時、これに耐えてパリを防衛したのがパリ伯、ロベール家のウードであった。
大諸侯は、ノルマン人と屈辱的な協定を結んでいたシャルル肥満王(カール3世(フランク王))を廃位し、変わってウードを王国に推戴した(ウード(西フランク王))。
しかし、カロリング家の断絶とともに、ロベール家の血を引くパリ伯ユーグ・カペーが即位し、フランス王国のカペー朝を開いたが、諸侯勢力の前に王権はふるわず典型的な封建社会を現出させた。

歴代国王

  1. シャルル2世(西フランク王)(843年 – 877年)
  2. ルイ2世(西フランク王)(877年 – 879年)
  3. ルイ3世(西フランク王)(879年 – 882年、カルロマン2世と共同統治)
  4. カルロマン2世(西フランク王)(879年 – 884年、882年までルイ3世と共同統治)
  5. カール3世(フランク王)(884年 – 887年)
  6. ウード(西フランク王)(888年 – 898年、893年からシャルル3世と共同統治)
  7. シャルル3世(西フランク王)(893年 – 923年、898年までウードと共同統治)
  8. ロベール1世(西フランク王)(922年 – 923年)
  9. ラウール(西フランク王)(923年 – 936年)
  10. ルイ4世(西フランク王)(936年 – 954年)
  11. ロテール(西フランク王)(954年 – 986年)
  12. ルイ5世(西フランク王)(986年 – 987年)

Wikipediaより

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