足利義教 (
A.D.1394〜A.D.1441)
室町幕府第6代征夷大将軍(在位1428〜1441)。兄足利義持が将軍職を継いだため出家したが、義持が後継を決めないままに没したため、くじ引きで将軍に選ばれた。幕府の権威回復と、中央集権体制の確立に奮闘し、その手段は一面、恐怖政治となった。播磨国守護の赤松満祐に殺害され(嘉吉の乱)、以降、将軍の権威は大きく揺らいでいった。
足利義教
「くじ引き」将軍の恐怖政治
室町幕府六代将軍。兄・義持が将軍職を継いだため出家したが、義持が後継を決めないままに没したため、くじ引きで将軍に選ばれた。幕府の権威回復と、中央集権体制の確立に奮闘し、その手段は一面、恐怖政治となった。播磨国守護の赤松満祐に殺害された(嘉吉の乱)。
参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
幕府の衰退と庶民の台頭
幕府の動揺と応仁の乱
5代将軍足利義量(1407〜25)が早世したのち、義持は後継者を定めぬまま死去したため、くじ引きによって義持の弟の足利義教(1394~1441)が6代将軍に選ばれた。義教は幕府における将軍権力の強化をねらって、将軍に服従しない者をすべて力でおさえようとしたため、幕府からの自立意識が強かった鎌倉府との関係が悪化し、11438(永享10)年、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実(1410〜66)が対立したのを機に、将軍義教は上杉憲実支援の名目で関東へ討伐軍を送り、翌年、足利持氏を討ち減ぼした(永享の乱)。さらに、義教は専制政治を強行し、1440(永享12)年には有力守護である一色義貫(1400〜40)・土岐持頼(?〜1440)を相ついで誅殺したため政治不安が高まり、1441(嘉吉元)年、処罰を恐れた有力守護赤松満祐(1373〜1441)は義教を殺害した(嘉吉の変)。やがて赤松氏は幕府軍に討伐されたが、 これ以降、将軍の権威は大きく揺らいでいった。
義教の恐怖政治
6代将軍義教は病的ともいえるほど癇が強く、また執念深い性格のもち主で、その怒りにふれて処罰された者は数知れない。1434(永享6)年、義教の妻日野重子(1411〜63)にのちの7代将軍義勝(1434~43)が誕生したとき、重子の兄日野義資はおりしも義教の勘気をこうむって謹慎中であったが、義勝の誕生によって義資の謹慎も解けるだろうと信じた多くの人々が義資邸へ祝賀に訪れたところ、義教はあらかじめ部下を張り込ませておいて訪問者の顔ぶれを調べあげ、公家・武家・僧侶など数十人に及ぶ人々を所領没収や家督剥奪などの厳罰に処した。
その数力月後、日野義資はは何者かに暗殺されたが、それが義教の仕業だと噂したある公家は、所領没収のうえ流罪となった。公家のひとり中山定親(1401〜59)はその日の日記に、義教の将軍就任から1434(永享6)年までの間に義教から処罰された人々のリストを書きあげている。そこには、公家・神職・僧侶・女房など70名以上にのぼる人々の名がみえる。その後、嘉吉の変までの数年間を含めれば、受難者の数はこの倍以上にのぼるとみられている。