長州征討 ちょうしゅうせいとう (1864, 1866)
- 第一次:1864年禁門の変を理由に幕府が長州藩を攻めた戦争。俗論派が藩内の尊攘派を弾圧し恭順。
- 第二次:1866年高杉晋作らが長州藩の実権を握り、倒幕の動きを強めたため、幕府が長州藩を攻めた戦争。将軍家茂の病死で停戦。
長州征討
- 第一次:禁門の変を理由に、征討令(長州征討の勅令)をうけた幕府が征長軍を組織し、1864年に長州藩を攻めた戦争。結果、四国艦隊下関砲撃事件後に長州藩の政権を握っていた俗論派(上層保守派)は藩内の尊攘派を弾圧し、恭順(つつしんで従う意)の態度をとった。長州戦争・幕長戦争ともいう。
- 第二次:1865年、高杉晋作らが再び長州藩の実権を握り、倒幕の動きを強めたため、幕府が長州再征の勅許を得、再び成長令を発して長州藩を攻めた戦争。1866年6月に戦闘が始まり、芸州口・石州口・小倉口で交戦したが、幕府側は連敗、将軍家茂の病死を機に、8月に停戦。
近代国家の成立
開国と幕末の動乱
公武合体と尊攘運動
幕府は尊攘派にさらに打撃を加えるため、禁門の変の罪を問うという理由で朝廷から長州征討(第1次)の勅書を出させ、長州藩を攻撃した。また、貿易の妨げになる尊攘派に打撃を加える機会をうかがつていた列国は、イギリス公使オールコック( Alcook, 1809〜97 )の主導により、前年の長州藩外国船砲撃事件の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊が下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させて下関の砲台などを占領した(四国艦隊下関砲撃事件)。
- 公武合体と尊攘運動 – 世界の歴史まっぷ
倒幕運動の展開
いったん幕府に屈服した長州藩では、攘夷の不可能なことをさとった高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允、1833〜77)らは、幕府にしたがおうとする藩の上層部に反発し、高杉は奇兵隊を率いて1864(元治元)年12月に下関で挙兵し、藩の主導権を握った。この勢力は領内の豪商·豪農や村役人層とも結んで恭順の藩論を転換させ、軍制改革を行って軍事力の強化をはかっていった。
長州藩の藩論が一変したため、幕府は再び長州征討(第2次)の勅許を得て諸藩に出兵を命じた。しかし、攘夷から開国へと藩論を転じていた薩摩藩は、長州藩がイギリス貿易商人のグラヴァーから武器を購入するのを仲介するなど、ひそかに長州藩を支持する姿勢を示した。
開国に伴う物価騰貴など経済の混乱と政局をめぐる対立抗争は、社会の不安を大きくし、世相もきわめて険悪となっていた。国学の尊王思想は農村の豪農・神職らに広まり、とくに1866(慶応2)年の第2次長州征討の年には百姓一揆の件数が100件を超し、武蔵一円の一揆や陸奥信夫・伊達両郡の一揆などでは、世直しが叫ばれ社会の変革が期待された(世直し一揆)。また、都市でも長州征討のさなかに大坂・堺・兵庫や江戸で打ちこわしがおこり、民衆の幕府に対する不信がはっきりと示された。