門戸開放通牒 もんこかいほうつうちょう (門戸開放宣言 1899, 1900)
合衆国国務長官ジョン=ヘイが中国進出のため列国に提唱した宣言。1899年の門戸開放・機会均等、1900年の領土保全を内容とした。
門戸開放通牒
合衆国国務長官ジョン=ヘイが中国進出のため列国に提唱した宣言。1899年の門戸開放・機会均等、1900年の領土保全を内容とした。
近代国家の成立
日露戦争と国際関係
列強の中国分割
アジアの大国であった清国が日清戦争に敗れて弱体ぶりを暴露すると、列強の目はいっせいに清国に注がれることになった。ドイツが宜教師殺害事件をきっかけに、1898年に山東半島の膠州湾を租借すると、続いてロシアが、三国干渉によって日本が清国に返還した遼東半島の旅順・大連などを、イギリスが威海衛·九竜半島を、フランスは広州湾をそれぞれ租借し、アメリカも1899年、国務長官ジョン=ヘイ( John Hay, 1838〜1905)が清国に対する門戸開放・機会均等・領土保全を宣言して、列強の清国進出に割り込む姿勢を示した。列強はこれらの租借地を根拠地として鉄道敷設権や鉱山採掘権などを得て、清国での権益を拡大していった ❷ 。
日清戦争終結から3年後、列強がこぞって中国を分割する様を描いています。この年、各国による租借、占領、割譲などが次々に行われました。図の左からイギリスのヴィクトリア女王、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) 、ロシアのニコライ2世、フランスの象徴である女性像マリアンヌ、そして日本を象徴するサムライ。背後には清国人がなすすべもなく手を上げています。 参考: おもしろい世界の風刺画 (OAK MOOK)
満州進出と日米摩擦
アメリカが日露戦争で日本に好意的立場をとり、講和を仲介したのは、ロシアが満州を独占的に支配することを警戒したためであったが、戦後、日本の南満州への進出が盛んになると、満州の鉄道に関心をもつアメリカとの対立が芽ばえ始めた。すでに日露講和条約締結直後の1905(明治38)年、アメリカの鉄道企業家ハリマン( Harriman, 1848〜1909)は長春・旅順間の鉄道を日米共同経営とすることを提案したが、日本政府はこれを拒否した。その後も、アメリカは満州に対する門戸開放を唱えて、1909(明治42)年には国務長官ノックス( Knox, 1853〜1921)が、満州における列国の鉄道権益を清国に返還させ、これを列国の共同管理のもとにおくこと(満州の鉄道中立化)を提案したが、日本とロシアがこれに反対して、この提案は実現しなかった。