開拓使官有物払下げ事件 A.D.1881〜
開拓使10年計画の満期を迎え、投資総額1500万円にのぼる開拓使官有物を、長官黒田清隆が五代友厚らの関西貿易社に、38万円余・30年賦・無利息という条件で払い下げようとして問題化した事件。藩閥と政商の結託と批判され、世論の政府攻撃が激化、10月に払下げは中止された。
開拓使官有物払下げ事件
開拓使官有物払下げ事件
背景 | 北海道開拓使の廃止を決定 → 1400万円を投じた官営事業の払下げ |
経過 | ①参議兼開拓長官黒田清隆(薩)が、約38万7000円、無利息30年賦の好条件で払下げ決定(1881.7.21閣議決定) → 払下げ先:関東貿易社(薩摩藩出身の政商五代友厚)、北海社(開拓使の官吏が設立) ②『郵便報知新聞』による開拓使官有物払下げ事件の暴露(1881.7.26) → 各地で政府を批判する演説会開催(官僚と政商の癒着、有司専制政治の弊害を攻撃) ③払下げ発表(1881.8.1) |
結果 | 明治十四年の政変(1881.10) → 開拓使官有物払下げの中止 |
1881年、開拓使10年計画の満期を迎え、投資総額1500万円にのぼる開拓使官有物を、長官黒田清隆が五代友厚らの関西貿易社に、38万円余・30年賦・無利息という条件で払い下げようとして問題化した事件。藩閥と政商の結託と批判され、世論の政府攻撃が激化、10月に払下げは中止された。
近代国家の成立
立憲国家の成立と日清戦争
国会開設運動
政府部内でも、1879(明治12)〜81(明治14)年にかけて、政府首脳が相ついで立憲政治の実現について意見書を提出したが、その多くは準備のため十分に時間をかけて国会を開設する(漸進的国会開設)というものであった。ところが、参議大隈重信が1881(明治14)年3月、2年後には国会を開設してイギリス流の政党政治(議院内閣制)を取り入れるべきであるという内容の意見書を上奏して、漸進的国会開設を主張する伊藤博文らとの対立を深めた。しかも同年夏、開拓使官有物払下げ事件がおこったことは、民権派の政府攻攻撃をいっそう高めることになった。そこで政府は、漸進的な国会開設と君主の権限が強大なドイツ(プロイセン)流の憲法をつくる方針を固め ❶ 、1881(明治14)年10月、民権派の機先を制して大隈重信を辞職させるとともに、1890(明治23)年に国会を開設することを約束する勅諭(国会開設の勅諭)を発した。これが、いわゆる明治十四年の政変である。こうして政府は、岩倉具視・伊藤博文らが中心となり、民権派の攻撃の矛先をかわすとともに、自らの主導権のもとに立憲政治の実現をはかることになったのである。
開拓使官有物払下げ事件
薩摩出身の開拓長官の黒田清隆は、1872(明治5)年からの開拓10年計画終了にあたり、1400万円余りの巨費を投じて北海道開発を進めてきた官営事業を、わずか39万円、無利息30年賦で薩摩出身の政商五代友厚(1835〜85)らの関西貿易社に払い下げようとした。政府は、いったんこれを承認したが、これが藩閥政治と政商との結びつきを示すものとして民間から攻撃され、政府内部でも大隈が反対した。大隈が民権派と手を結んで政府の打倒をはかろうとしていると判断した政府首脳は、払下げ中止を決定するとともに、大隈を辞職させて事の収拾をはかったのである。