高宗(朝鮮) (コジュン
A.D.1852〜A.D.1919)
李氏朝鮮第26代王。大韓帝国初代皇帝。1873年までは摂政の大院君に、親政開始後は閔妃の一族に、日露戦争後は日本に実権を握られた。1907年バーグ密使事件をおこし、日本に強制されて王位を太子にゆずった。
高宗(朝鮮)
朝鮮王朝の第26代国王(在位1863〜1919)。大院君の第2子。1873年までは摂政の大院君に、親政開始後は閔妃の一族に実権を握られた。また、日露戦争後、日本に外交・内政の実権を握られ、1907年に日本に強制されて王位を太子にゆずった。
朝鮮の第26代国王。閔氏一族の政権独占を排除し、1897年に国号を大韓帝国と改めて、初代皇帝となる。1907年にバーグ密使事件を起こし、退位した。
日本に退位を迫られた朝鮮王
11歳で即位。21歳までは父の大院君が摂政を務め、それ以降は妻の閔妃に実権を握られる。日本の干渉をハーグ平和会議に訴えた「ハーグ密使事件」を口実に日本により退位させられた。その死をきっかけに大規模な抗日デモ「三・一運動」がおこる。高宗は1910年の韓国併合後は徳寿宮李太王と称され、日本の皇族としての待遇をうけた。
独立を果たすも日本の植民地化が進む
11歳で国王に就くが、20歳まで父・興宣大院君が摂政になっていた。その後は妻の閔妃とその一族に政権を奪われた。閔妃の暴政への反発で壬午軍乱が起こり、続いて独立党がクーデターを起こす。さらに東学党の乱をきっかけに、朝鮮が日清戦争の戦場になるなど、高宗にとって苦難の日々が続いた。しかし日清戦争で日本が勝利。朝鮮は清の柵封(君臣関係)下から脱し、まがりなりにも独立国となった。高宗は国名を「大韓帝国」とし、44歳で初代皇帝となった。ただ欧米列強と対抗して生き抜く国力に欠け、ロシアと日本の選択に迫られた高宗は、やむなく日本の保護下に入った。その後の高宗は、日本の圧力から逃れようと他国に支援を頼むが、列強からの援助はなく、かえって日本による植民地化が進んだ。反日闘争が各地で起こると、高宗はオランダのバーグで開催された万国平和会議に密使を派遣。これを背信行為とした日本の韓国統監・伊藤博文に退位を迫られ、息子に譲位した。
高宗が登場する作品
ドラマ「明成皇后」
ドラマ「明成皇后」登場人物相関図
楽天TVでも観ることができます。 明成皇后
高宗(朝鮮)実在写真
李氏朝鮮歴代国王一覧
李氏朝鮮国王一覧
姓・諱 | 廟号 | 日本読み | 朝鮮読み | 在位開始 | 在位終了 | 作品 | 党派 | 乱 | 父 | 母 | 封号 | ||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
李氏朝鮮 | 第1 | 李成桂 | 太祖 | たいそ | 1393 | 1398 | 勲旧派 | 李子春 | 永興崔氏 | 権知高麗国事 | |||||||||
第2 | 李芳果 | 定宗 | ていそう | チョンジョン | 1398 | 1400 | 太祖 | 神懿王后 | 次男 | ||||||||||
第3 | 李芳遠 | 太宗 | たいそう | テジョン | 1400 | 1401 | 太祖 | 神懿王后 | 五男 | ||||||||||
1401 | 1418 | 朝鮮国王 | |||||||||||||||||
第4 | 李裪 | 世宗 | せいそう | セジョン | 1418 | 1450 | 太宗 | 元敬王后・閔氏 | 三男 | ||||||||||
第5 | 李珦 | 文宗 | ぶんそう | ムンジョン | 1450 | 1452 | 王女の男 | 世宗 | 昭憲王后・沈氏 | 長男 | |||||||||
第6 | 李弘暐 | 端宗 | たんそう | タンジョン | 1452 | 1455 | 癸酉靖難 | 文宗 | 顕徳王后・權氏 | ||||||||||
第7 | 李瑈 | 世祖 | せいそ | セジョ | 1455 | 1468 | 李施愛の乱 | 世宗 | 昭憲王后・沈氏 | 次男 | |||||||||
第8 | 李晄 | 睿宗 | えいそう | イェジョン | 1468 | 1469 | 世祖 | 貞熹王后・尹氏 | 次男 | ||||||||||
第9 | 李娎 | 成宗 | せいそう | ソンジョン | 1469 | 1494 | 士林派 | 世祖の長男・懿敬世子 | 仁粋大妃 | 次男 | |||||||||
第10 | 李㦕 | 燕山君 | えんざんくん | ヨンサングン | 1494 | 1506 | 戊午士禍 甲子士禍 中宗反正 | 成宗 | 廃妃・尹氏 | 長男 | |||||||||
第11 | 李懌 | 中宗 | ちゅうそう | チュンジュン | 1506 | 1544 | 己卯士禍 | 成宗の次男 | 貞顕王后・尹氏 | ||||||||||
第12 | 李峼 | 仁宗 | じんそう | インジョン | 1544 | 1545 | 中宗 | 章敬王后・尹氏 | 長男 | ||||||||||
第13 | 李峘 | 明宗 | めいそう | ミョンジョン | 1545 | 1567 | 乙巳士禍 | 中宗 | 文定王后 | 次男 | |||||||||
第14 | 李昖 | 宣祖 | せんそ | ソンジョ | 1567 | 1608 | 西人 | 東人 | 文禄・慶長の役 | 中宗の三男・徳興大院君 | 河東府大夫人鄭氏 | 長男 | |||||||
第15 | 李琿 | 光海君 | こうかいくん | クァンヘグン | 1608 | 1623 | 南人 | 北人 | 宣祖 | 恭嬪金氏 | 次男 | ||||||||
第16 | 李倧 | 仁祖 | じんそ | インジョ | 1623 | 1649 | 小北 | 大北 | 宣祖の五男・定遠君(庶子) | 仁献王后 | 長男 | ||||||||
第17 | 李淏 | 孝宗 | こうそう | ヒョジュン | 1649 | 1659 | 仁祖 | ||||||||||||
第18 | 李棩 | 顕宗 | けんそう | ヒョンジョン | 1659 | 1673 | 西人粛清 | 孝宗 | 仁宣王后 | 長男 | |||||||||
第19 | 李焞 | 粛宗 | しゅくそう | スクチョン | 1674 | 1720 | トンイ | 老論 | 少論 | 甲寅礼訴 庚申換局 | 顕宗 | 明聖王后 | 長男 | ||||||
第20 | 李昀 | 景宗 | けいそう | キョンジョン | 1720 | 1724 | 辛壬士禍 | 粛宗 | 禧嬪張氏 | 長男(庶子) | |||||||||
第21 | 李昑 | 英祖 | えいそ | ヨンジョ | 1724 | 1776 | イ・サン | 僻派 | 時派 | 壬午士禍 | 粛宗 | 淑嬪崔氏 | 次男(庶子) | ||||||
第22 | 李祘 | 正祖 | せいそ | チョンジョ | 1776 | 1800 | 功西 | 信西 | 辛酉教獄 | 英祖の次男・荘献世子 | 恵慶宮洪氏 | 次男 | |||||||
第23 | 李玜 | 純祖 | じゅんそ | スンジョ | 1800 | 1834 | 僻派 | 勢道政治 (安東金氏) | 正祖 | 綏嬪朴氏 | 次男 | ||||||||
第24 | 李奐 | 憲宗 | けんそう | ホンジョン | 1834 | 1849 | 純祖の長男・孝明世子 | 神貞王后 | 長男 | ||||||||||
第25 | 李昪 | 哲宗 | てっそう | チョルジュン | 1849 | 1863 | 正祖の弟・恩彦君の子・恩彦君 | 龍城府大夫人廉氏 | 三男 | ||||||||||
第26 | 李熙 | 高宗 | こうそう | コジュン | 1863 | 1897 | 明成皇后 | 江華島事件 壬午事変 甲申政変 東学党の乱 乙未事変 | 英祖の次男・荘献世子の三男・恩信君 の養子・南延君の四男・興宣大院君 | 驪興府大夫人閔氏 | 次男 | ||||||||
大韓帝国 | 高宗 | 1897 | 1907 | 第1代皇帝 | |||||||||||||||
第27 | 李坧 | 純宗 | じゅんそう | スンジュン | 1907 | 1910 | 高宗 | 明成皇后閔氏 | 長男 | 第2代皇帝 |
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
朝鮮の開国
17世紀以降、清の従属国の立場にあった朝鮮王朝では、19世紀になると官僚間の党争や権門による政治独占など、政治的動揺が続いた。農村では貧富の差の拡大や相次ぐ災害などにより、社会不安が高まっていた。1811年におこった洪景来の乱は、不平を抱く官人層に指導された大規模な農民反乱であった。こうした状況のなか、1860年代になると、欧米列強は従来からの鎖国政策を続ける朝鮮にも開国を迫るようになった。列強の開国要求に対し、当時の朝廷の実権者大院君(1820〜98, 国王高宗(朝鮮)の父)は、強硬な攘夷政策をとってこれを拒否した。やがて明治維新後の日本政府も、朝鮮に対して開国を要求するようになった。そこでの西郷隆盛(1822〜77)、板垣退助(1837〜1919)らの征韓論はひとまず退けられた。1875年におきた江華島事件を契機に、日本政府は、朝鮮に強い圧力をかけ、翌76年、釜山・仁川・元山の3港の開港のほか、領事裁判権や日本側に一方的な無関税特権など、不平等条項を含む日朝修好条規(江華島条約)を結んだ。