ステュアート朝
アン(イギリス女王)による1707年〜714年までの紋章 Wikipedia

ステュアート朝


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ステュアート朝 「イングランド王国ステュアート朝」(1603〜1707), 「スコットランドステュアート朝」(1371〜1707)うち「イングランド共和国」(1649〜1660), 「グレートブリテン王国ステュアート朝」(1707〜1714)

スコットランドの王朝( A.D.1371〜A.D.1714)。1603年、イングランド王国テューダー朝のエリザベス1世が未婚のまま没すると、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)として迎えられイングランド王国ステュアート朝を開き、1707年まで同君連合体制となった。

ステュアート朝

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

歴代君主

スコットランド国王

  • ロバート2世(スコットランド王) (1371年 – 1390年)
  • ロバート3世(スコットランド王) (1390年 – 1406年)
  • ジェームズ1世(スコットランド王) (1406年 – 1437年)
  • ジェームズ2世(スコットランド王) (1437年 – 1460年)
  • ジェームズ3世(スコットランド王) (1460年 – 1488年)
  • ジェームズ4世(スコットランド王) (1488年 – 1513年)
  • ジェームズ5世(スコットランド王) (1513年 – 1542年)
  • メアリー1世(スコットランド女王) (1542年 – 1567年)

スコットランドおよびイングランド国王

ヨーロッパ主権国家体制の展開

イギリス立憲政治の発達

ピューリタン(清教徒)革命

イギリスでエリザベス1世(イングランド女王)が未婚のまま没すると、テューダー朝の血統が絶えた。このため1603年、スコットランド王ジェームズ6世がジェームズ1世(イングランド王)(位1603〜1625)として迎えられ、ここにステュアート朝が開かれた。これ以後、1707年に正式に合同するまで、両国は「同君連合」のかたちをとる。彼は長年のスペインとの対立を解消し、平和主義者とみられたが、外国人の国王でもあり、その支持基盤はきわめてもろかった。王権神授説を唱え、専制政治に走ったのも、むしろその弱さの表れとみられている。

エリザベス時代以来、国内はジェントルマン階層とともに、ヨーマンと呼ばれた比較的豊かな農民や商工業者が力をもつようになり、彼らを中心にピューリタニズムの信仰が広まった。彼らが、とくに議会に結集する傾向を示すと、ジェームズ1世はいっそう強圧的な政治で対抗したため、両者の対立が激化した。

ピューリタニズム

本来は、宗教改革を徹底することによって、国教会の浄化をめざした運動であったが、カルヴァン派の影響をうけ、政治的・社会的な運動として展開した。一般には聖書主義(福音主義)の立場をとり、世俗の職業を重視して、合理主義の立場から禁欲や勤勉を説いた。長老派、組合派、バプテスト、クェーカーなど多様なセクト(宗派)に分かれ、イギリスではピューリタン革命の原動力となったほか、多くのセクトがアメリカで発展した。

次のチャールズ1世(イングランド王)(位1625〜1649)は、父王ジェームズ以上に専制を強化した。このため1628年、議会は「権利の請願」を提出して、議会の同意していない課税や法にもとづかない逮捕や投獄をやめることなどを国王に約束させた。これに対して国王は、翌年、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。この間、カンタベリー大主教ウィリアム・ロード(1573〜1645)やトマス・ウェントワース(初代ストラフォード伯爵)(1593〜1641)を重用して、国教会と国家の結びつきを緊密にした(「ロード=ストラフォード体制」という)ことによって、国民の決定的な不評をかった。しかし、1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱がおこり、チャールズ1世としても戦費調達のため議会を召集せざるをえなくなった。

しかし、このために開かれた議会は課税を拒否したうえ、国王を激しく避難したため、国王は3週間でこれを解散した(短期議会)。同年、新たな議会(1653年まで10年以上続いたため、長期議会という)が開かれたが、対立はますます深刻化し、1642年、5名の議員を逮捕しようとして失敗した国王は北部のヨークに逃れ、イギリスは内乱状態に突入した。

内乱では、初めは王党派が優勢であったが、議会派の中心となった独立派のオリバー・クロムウェル(1599〜1658)が鉄騎兵や近代の国民軍に近い性格の「新型軍(鉄騎隊)」を編制して、1644年、ネイズビーの戦いで、王党派は決定的に打ち破られた。ついに1649年には国王は処刑され、クロムウェルら議会派が共和制を打ち立てた。この一連の動きをピューリタン革命という。

いったん勝利した議会派のなかでは、政権の中枢に座った独立派と、長老派や主として小ブルジョワを代表したといわれる平等派(水平派、レヴェラーズ)との間に、つぎつぎと対立が生じた。

オリバー・クロムウェル
オリバー・クロムウェル(サムエル・クーパ画/ナショナル・ポートレート・ギャラリー蔵)©Public Domain

サムエル・クーパー作の未完成の肖像画。力強く、人間味あふれる印象を与える。彼はピューリタン的生活を国民に強制し、大衆の楽しみであった演劇などの娯楽を禁止した。

クロムウェルの率いる独立派は、まずより急進的な平等派と組んで、スコットランドやロンドンの大商人に支持者の多かった穏健な長老派を追放し、ついで1649年には、リルバーン(1614〜1657)をリーダーとした平等派をも抑えて、独裁権を確立した。

権力を確立したクロムウェルは、貴族院を廃止して庶民院のみとし、アイルランドを征服したほか、1651年には航海法(航海条例)を施行してオランダの中継貿易を排除しようとした。このためにおこった第1次イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争 1652〜1654)に勝利すると、1653年終身の護国卿となり、軍事独裁をおこなった。劇場を封鎖し、ほとんどの娯楽を禁じるなど、厳格なピューリタニズムにもとづくクロムウェルの独裁政治は、民衆の反感をかい、王政復古につながった。

航海法

イギリス重商主義政策の根幹をなした政策で、直接的には、オランダに対抗してイギリス海運業の利益を守ることを目的としたが、結果として、貿易業や製造業をも保護することになった。

1651年法では、イギリスと植民地の貿易を基本的にイギリス船に限定することを規定し、1660年法は、植民地が砂糖・タバコ・藍など植民地の特産物をイギリス以外の国に直接輸出することを禁止した。さらに、1663年法では、植民地の輸入をもイギリス船に限定した。他方では、これらの政策は植民地人の不満のもとにもなった。

アイルランド

アイルランドには、ウェールズ・スコットランドと同じようにケルト人が住んでいたが、彼らはカトリックに改宗しており、宗教改革以降しばしばイギリスの侵略をうけた。

エリザベス時代にもかなりの規模の植民がおこなわれ、クロムウェルと名誉革命後の征服で、ほぼ全土がイギリスの植民地となった。このため、ケルト人を中心とするカトリック教徒の抵抗や、独立運動が長期的に続く。のちには、スコットランドからのプロテスタント入植者をも交えて、複雑な対立抗争が近年にまでひきつがれた。

ブリテン諸島の地図
ブリテン諸島の地図 ©世界の歴史まっぷ

参考:ピューリタン(清教徒)革命 – 世界の歴史まっぷ

王政復古から名誉革命へ

オリバー・クロムウェルの独裁に対する国民の不満を利用した王党派は、クロムウェルが没すると、その息子がさらに不評であるのに乗じて、1660年、長老派と組んで、フランスに亡命していた前王の子チャールズ2世(位1660〜1685)を呼びもどした。チャールズ2世(イングランド王)は、「ブレダ宣言」によって、大半の革命関係者の責任を問わず、革命で没収された王党派の土地財産の処理については議会の決定に従うこと、信仰の自由をある程度容認することなど、議会との和解の姿勢を示し、ステュアート朝を復活した。

議会派革命の成果を生かし、国教主義を中心に政治を進めようとしたが、国王はフランスとつうじてカトリックの信仰と絶対王政の復活をはかった。このため議会は、非国教徒が公職につくことを禁じた審査法(テスト・アクト 1673)や、不法な逮捕・投獄を禁じた人身保護法(1679)を制定して対抗した。こうした過程で、王権に寛容なトーリ派と、どちらかといえば批判的なホイッグ派(ウィッグ派)の2つの党派がしだいに確立し、のちの二大政党制の基礎がきずかれた。

航海法・人身保護法・糖蜜法など、このころのイギリスの法律はかつて「条例」「律」「令」などと訳されたこともあるが、近年は「法」に統一する傾向にある。

しかし、次のジェームズ2世(イングランド王)(位1685〜1688)の政治も専制的であり、カトリックの復活を意図しているような疑惑もあったため、1688年、議会は一致してジェームズ2世をフランスに追放し、かわってメアリー2世(イングランド女王)(位1689〜1694)とその夫でオランダの総督ウィリアム3世(イングランド王)(位1689〜1702)を共同統治の王として迎えた。両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布した。これによって、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。この革命を名誉革命という。この革命によって確立した体制は、以後、1世紀以上にわたってイギリスの社会や政治のあり方を決めることになる。さきのピューリタン革命と合わせて、「イギリス革命(市民革命)」と呼ぶこともある。

権利の章典(1689年)

1. 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止したり、法の施行を停止したりする権力があるという主張は、違法である。

4. 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期間にわたり、また議会が承認するのと異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは、違法である。

6. 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴収し維持することは、法に反する。

8. 国会議員の選挙は自由でなければならない。

9. 議会での言論の自由や討論や議事手続は、議会以外のいかなる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。

13. また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。

市民革命

「市民革命」とは、封建国家から、資本主義の発展を全面的に促進する近代国家への転換を決定的にした政治体制の変革をいう。つまり、絶対王政のもとで力を蓄えたブルジョワジーが、みずから政権を握った出来事である。封建制度にもとづく土地所有のありかたが廃止され、私有財産制度が確立すること、農奴制度が廃止されることなどを目印とする。

しかし、実際にどの事件がそれにあたるかについては、いろいろな意見がある。イギリスのこの2つの革命、フランス革命、アメリカ独立革命、ドイツの三月革命、ロシアの第1次革命(1905)などが、それにあたると考えられてきたが、日本については、明治維新がそれにあたるかどうかをめぐって、戦前から大論争が展開されてきた。

スコットランドでは、1536年にイングランドに併合されたウェールズや、アイルランドとならぶケルト人の国であったが、1707年にいたってイングランドに併合され、イギリスは大ブリテン王国となった。この併合によって、スコットランドは政治的独立を失ったが、ケルト文化の伝統はその後も一貫して残っている。経済的にはイギリス重商主義政策によって抑圧もされたが、イングランドとその植民地を市場とすることができた一面もあった。とくにグラスゴーなどでは、かなりの経済発展がみられ、のちにイギリス産業革命のひとつの中心となる。

1714年にアン(イギリス女王)(位1702〜1714)が死去し、ステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世(イギリス王)(位1714〜1727)として迎えられ、ハノーヴァー朝(1714〜1917)が成立した(この王朝は、のちにイギリス風にウィンザー朝と名称を変え、現在にいたっている)。40歳をすぎてイギリスにきた王は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党のロバート・ウォルポール首相(任1721〜1742)のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立したのである。

ブリテン諸島の地図
ブリテン諸島の地図 ©世界の歴史まっぷ

名誉革命後、とくに18世紀前半のイギリスでは、大地主や大貿易商を背景とするホイッグ党の優位が続き、帝国の拡大をめざす重商主義政策を展開した。このためフランスとの関係は悪化し、革命直後から早くも対仏戦争(アウクスブルク同盟戦争 九年戦争)に巻きこまれ、さらにスペイン継承戦争が続く。ウィリアム3世(イングランド王)はまた、フランスとつうじる可能性のあるアイルランドに遠征軍を派遣し、ほぼ完全に同地を植民地化してしまった。

王政復古から名誉革命へ – 世界の歴史まっぷ

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