大空位時代
『ドイツ』 ドイツ国家の擬人化-彼女が立てている盾はドイツ連邦議会の紋章。下には七選帝侯の紋章 (Philipp Veit画/シュテーデル美術館蔵) ©Public Domain

大空位時代


大空位時代 A.D.1250〜A.D.1254

神聖ローマ皇帝(ドイツ王)の事実上の空位時代(1254/6~73)。 Interregnumという語は、ローマ王政時代に、王の死後その後継者が選出されるまでの間、中間王 Interrexが任命されて統治にあたった期間の政治体制を意味したが、歴史上では神聖ローマ帝国の空位時代をさす。中世後半のドイツでは皇帝権力が衰えた反面、諸侯の権力は増大し、1250年ホーエンシュタウフェン朝の皇帝フリードリヒ2世が死んだあと、子のコンラート4世が帝位(王位)を継いだが、47年対立皇帝(王)としてウィルヘルム・フォン・ホラントも帝位についていた。両者が没したあと、皇帝(王)が濫立して帝位は安定しなかった。大空位時代はコンラートの没した 54年か、ウィルヘルムの没した 56年から始ったとされ、73年ハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝に選ばれてようやく帝権が安定し大空位時代が終った。この事件は、形式上最高の栄誉をになった神聖ローマ皇帝の政治的実権がいかに微弱であったかを示すとともに、ドイツにおいていかに諸侯の地方分権が進んだかを象徴している。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

大空位時代

世界史対照略年表(1300〜1800)
/>世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

大空位時代
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

ドイツの分裂

ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家ヴェルフ家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代)。ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。
ドイツの分裂 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

定義と特徴

「大空位時代」とはローマ王(ドイツ王)の不在を意味する言葉であるが、この時期に決して王が不在であったわけではなく、この言葉は皇帝の空位時期を示す言葉でもない。大空位時代以前にも皇帝にならなかったローマ王はコンラート3世(神聖ローマ皇帝)、フィリップ(神聖ローマ皇帝)などがいる。大空位時代の終焉はルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)のローマ王即位に置かれるが、ルドルフは皇帝として戴冠していない。語義的にも「王権」(regnum)を対象としており、「帝権」(Imperium)と「王権」にはこの時期明確な区別が存在した。したがってこの時代の特色は、二重選挙によってローマ王権が著しく衰退したこと、また王位が弱小諸侯もしくは帝国外の人物によって獲得され、ほとんどローマ王不在と同じような状況に陥ったことである。また、ローマ王の選挙権は7人の選帝侯にあるという考えが、大空位時代の時点で確立していたことにも注目される。

歴史的展開

ホーエンシュタウフェン朝の終焉

神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝では、1250年にフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)が死去した後、次男のコンラート4世(神聖ローマ皇帝)が後を継いだが、コンラート4世は1254年に在位わずか4年で死去した。コンラート4世の子コッラディーノはローマ王位に就けず、継嗣もなかったため、ホーエンシュタウフェン朝は断絶した。

皇帝不在

コンラート4世(神聖ローマ皇帝)には対立王としてウィレム2世(ホラント伯)がいたが、コンラート4世の死で対立者がいなくなり、形の上では唯一のローマ王となった。ウィレムは「神聖ローマ帝国」を正式な国号として使用した最初の君主であったが、1256年に遠征の帰路で溺死し、ローマ王位は空になった。

皇帝不在となった神聖ローマ帝国では、諸侯による複雑な権力闘争が起こる一方、1257年のローマ王選挙で帝国外から2人の次期皇帝候補者が推された。
ケルン大司教、マインツ大司教、ライン宮中伯、オタカル2世(ボヘミア王)がヘンリー3世(イングランド王)の弟リチャード(コーンウォール伯)を推薦し、リチャードが候補に挙げられた3か月後にトリーア大司教、ザクセン大公、ブランデンブルク辺境伯、支持者を変えたオタカル2世(ボヘミア王)がアルフォンソ10世(カスティーリャ王)を推薦した。
このうちアルフォンソ10世(カスティーリャ王)はローマ教皇の強硬な反対と国内事情から国を離れて神聖ローマ帝国に駆けつけることができず、即位はならなかった。リチャード(コーンウォール伯)は4度帝国に渡ったが、滞在期間はごく短いものだった。

その後、ボヘミア王として帝国内で大勢力を誇るオタカル2世(ボヘミア王)(母クニグンデがフィリップ(神聖ローマ皇帝)の次女でアルフォンソ10世(カスティーリャ王)の従兄)が王位獲得を目指したが、帝国諸侯やローマ教皇はオタカル2世(ボヘミア王)のような強力な君主の出現を望まなかった。しかし長引く空位は帝国内の荒廃を招き、カルロ1世(シチリア王)は甥のフィリップ3世(フランス王)を帝位につけ、ヨーロッパをフランス勢力でまとめる野望を抱いていた。そのため、諸侯や教皇は1273年、当時としては弱小勢力に過ぎなかったハプスブルク家のルドルフ1世をローマ王として擁立した。これによって大空位時代は終わりを告げた。ただしルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)はローマで皇帝としての戴冠を受けることはなかった。

ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が帝国君主として諸侯から擁立されたのは、ルドルフ1世の祖父・ルドルフ2世(ハプスブルク伯)がホーエンシュタウフェン家の一族の娘アグネス・フォン・シュタウフェンと結婚していてその血を引いていたこと、フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)とコンラート4世(神聖ローマ皇帝)の時代にルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が皇帝・ローマ王に忠実に仕えていたのが評価されたためでもあった。しかし、ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は諸侯の思惑に反して優秀な人物であり、1278年にはオタカル2世(ボヘミア王)マルヒフェルトの戦いで敗死させ、オーストリア公国を獲得するなどして勢力を伸張させるとともに、帝国の安定化に努めた。

ただし、これによってハプスブルク家が帝位を独占することにはならず、ナッサウ家のアドルフ(神聖ローマ皇帝)、ルクセンブルク家のハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝)といったその時点での弱小勢力の君主擁立というパターンがなおも続いた。

参考 Wikipedia

神聖ローマ皇帝一覧

神聖ローマ帝国皇帝

名前在位
フランケン朝(コンラディン朝)
コンラート1世(ドイツ王)911年 - 918年
ザクセン朝(リウドルフィング朝/オットー朝)
ハインリヒ1世(ドイツ王)919年 - 936年
オットー1世(神聖ローマ皇帝)936年 - 973年ハインリヒ1世の子
オットー2世(神聖ローマ皇帝)973年 - 983年オットー1世の子
オットー3世(神聖ローマ皇帝)983年 - 1002年オットー2世の子
ハインリヒ2世(神聖ローマ皇帝)1002年 - 1024年オット-3世の又従兄弟、ハインリヒ1世の曾孫
ザーリアー朝
コンラート2世(神聖ローマ皇帝)1024年 - 1039年オットー1世(大帝)の娘ロイガルトの曾孫
ハインリヒ3世(神聖ローマ皇帝)1039年 - 1056年コンラート2世の長子
ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)1056年 - 1106年ハインリヒ3世の長子
ルドルフ・フォン・ラインフェルデン1077年 - 1080年ハインリヒ4世の対立王
ヘルマン・フォン・ザルム1081年 - 1088年ハインリヒ4世の対立王
コンラート(イタリア王)1087年 - 1098年廃位ハインリヒ4世の次子、ハインリヒ4世の共治王
ハインリヒ5世(神聖ローマ皇帝)1106年 - 1125年ハインリヒ4世の末子
ザクセン朝(ズップリンブルク朝)
ロタール3世(神聖ローマ皇帝)1125年 - 1137年
ホーエンシュタウフェン朝
コンラート3世(神聖ローマ皇帝)1138年 - 1152年
フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)1152年 - 1190年コンラート3世の子
ハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝)1190年 - 1197年フリードリヒ1世の子
フィリップ(神聖ローマ皇帝)1198年 - 1208年フリードリヒ1世の子、シュヴァーベン公
ヴェルフェン朝
オットー4世(神聖ローマ皇帝)1198年 - 1215年ロタール3世の曾孫、フィリップの女婿
ホーエンシュタウフェン朝
フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)1196年 - 1198年
1215年 - 1250年
ハインリヒ6世の子
ハインリヒ7世(ドイツ王)1220年 - 1235年廃位フリードリヒ2世の子、フリードリヒ2世の共治王
ハインリヒ・ラスペ1246年 - 1247年フリードリヒ2世の対立王
コンラート4世(神聖ローマ皇帝)1250年 - 1254年フリードリヒ2世の子
大空位時代
ウィレム2世(ホラント伯)1234年 - 1256年
リチャード(コーンウォール伯)1257年 - 1272年イングランド王ジョン(欠地王)の子、コーンウォール伯
アルフォンソ10世(カスティーリャ王)1257年 - 1275年カスティーリャ王
跳躍選挙
ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)1273年 - 1291年ハプスブルク伯
アドルフ(神聖ローマ皇帝)1292年 - 1298年
アルブレヒト1世(神聖ローマ皇帝)1298年 - 1308年ルドルフ1世の子
ハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝)1308年 - 1313年枢機卿による戴冠
ルートヴィヒ4世(神聖ローマ皇帝)1314年 - 1347年
フリードリヒ3世(ドイツ王)対立王位: 1314年 - 1325年
共治王位: 1325年 - 1330年
アルブレヒト1世の子
ルクセンブルク朝
カール4世(神聖ローマ皇帝)1346年 - 1378年ハインリヒ7世の孫
ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク
1347年 - 1349年カール4世の対立王
ヴェンツェル(神聖ローマ皇帝)1376年 - 1400年カール4世の子
ループレヒト(神聖ローマ皇帝)1400年 - 1410年
ヨープスト・フォン・メーレン1410年 - 1411年ジギスムントの共治王
ジギスムント(神聖ローマ皇帝)1410年 - 1437年カール4世の子
ハプスブルク朝
アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝)1438年 - 1439年
フリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝)1440年 - 1493年ローマで戴冠した最後の皇帝
マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝)1493年 - 1519年フリードリヒ3世の子、ローマへ行かずに皇帝になった最初の例
カール5世(神聖ローマ皇帝)1519年 - 1556年退位マクシミリアン1世の孫、教皇による戴冠を受けた最後の皇帝
フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)1556年 - 1564年マクシミリアン1世の孫
マクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝)1564年 - 1576年フェルディナント1世の子
ルドルフ2世(神聖ローマ皇帝)1576年 - 1612年マクシミリアン2世の子
マティアス(神聖ローマ皇帝)1612年 - 1619年マクシミリアン2世の子
フェルディナント2世(神聖ローマ皇帝)1619年 - 1637年フェルディナント1世の孫
フェルディナント3世(神聖ローマ皇帝)1637年 - 1657年フェルディナント2世の子
フェルディナント4世(ローマ王)1653年 - 1654年フェルディナント3世の子、フェルディナント3世の共治王
レオポルト1世(神聖ローマ皇帝)1658年 - 1705年フェルディナント3世の子
ヨーゼフ1世1705年 - 1711年レオポルト1世の子
カール6世(神聖ローマ皇帝)1711年 - 1740年レオポルト1世の子
ヴィッテルスバッハ朝(バイエルン朝)
カール7世(神聖ローマ皇帝)1742年 - 1745年フェルディナント2世の玄孫
ハプスブルク=ロートリンゲン朝
フランツ1世(神聖ローマ皇帝)1745年 - 1765年フェルディナント3世の曾孫、皇后:マリア・テレジア(オーストリア女大公位:1740年 - 1780年)
ヨーゼフ2世1765年 - 1790年フランツ1世の子
レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)1790年 - 1792年フランツ1世の子
フランツ2世(神聖ローマ皇帝)1792年 - 1806年退位レオポルト2世の子、オーストリア皇帝フランツ1世(在位:1804年 - 1835年)
皇帝戴冠前のドイツ王(東フランク王、ローマ王)含む。また、本質的には次期皇帝候補(皇太子)であった共同皇帝や王、および皇帝選出権者である有力諸侯が分裂したことによって生じた対立王も含む。さらに摂政となった皇妃なども補記。
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