天平文化 (8世紀初頭〜8世紀末)
天平文化
文化の特色
中央集権的な国家体制がととのって国の富が中央に集められ、皇族や貴族はこの富を背景に華やかな生活を享受した。
こうした奈良時代には、平城京を中心として高度な貴族文化が花開いた。この時代の文化を、聖武天皇の時代の元号をとって天平文化と呼ぶ。
当時の貴族は、遣唐使などによってもたらされる大国唐の進んだ文化を重んじたから、天平文化は、盛唐の文化に強く影響を受けた。国際色豊かな性格を持つことになった。また、国家仏教の影響も強く、寺院を中心とした仏教文化が盛んであったことも大きな特色である。古代の文化遺産である建造物や美術工芸品が、正倉院も含めて多く都の大寺院に伝えられていることは注目される。ただし、こうした文化を特に享受できたのは、天皇・貴族たち為政者や一部の僧侶など限られた階層の人々であった。
記紀の編纂
律令国家が形成される過程で朝廷の中で高まっていった国家意識を反映して、朝廷に夜統治の正当性や国家の形成・発展の来歴を明示することを目的として、国史の編纂が行われるようになった。天武天皇の時代に始められた国史編纂事業は、奈良時代に入って実を結び、『古事記』『日本書紀』として完成した。
712(和銅5)年にできた『古事記』は、古くから宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」を元に天武天皇が稗田阿礼に読みならわせた内容を太安万侶が文章化したもので、3巻からなる。天地創造、日本の国生みをはじめとして、天孫降臨、神武天皇の東征、日本武尊の地方征討などの神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語を、天皇を中心に構成したものである。従来、口頭で行われていた日本語の伝承を音や訓を用いながら漢字で表記することに、多くの苦心が払われている。720(養老4)年にできた『日本書紀』は、舎人親王を代表として中国の歴史書の体裁にならって編纂されたもので、漢文により編年体で書かれている。30巻からなり、神話・伝承を含めて神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇を中心に記している。中には中国の古典や編纂時点の法令によって文章を修飾した部分もあり、古代史の実像を明らかにするためには十分な史料批判が必要となるが、古代史研究の材料を提供する貴重な資料として位置付けられる。
なお、『日本書紀」をはじめとして朝廷による歴史編纂はのちに平安時代の途中まで引き続き行われ、合わせて六つの漢文正史が編纂された。これらを総称して「六国史」という。
古代の歴史編纂表
書名 | 六国史 | 収載年代 | 完成年 | 編者 |
---|---|---|---|---|
古事記 | 神代〜推古天皇(〜628) | 712年(和銅5) | 太安万侶 | |
日本書紀 | ○ | 神代〜持統天皇(〜697) | 720年(養老4) | 舎人親王ら |
続日本紀 | ○ | 文武天皇〜桓武天皇(697〜791) | 797年(延暦16) | 菅野真道・藤原継縄ら |
日本後紀 | ○ | 武天皇桓〜淳和天皇(792〜833) | 840年(付加 7 | 藤原緒嗣ら |
続日本後紀 | ○ | 仁明天皇(833〜850) | 869年(貞観 11 | 藤原良房・春澄善縄ら |
日本文徳天皇実録 | ○ | 文徳天皇(850〜858) | 879年(元慶3) | 藤原基経・菅原是善ら |
日本三代実録 | ○ | 清和天皇〜光孝天皇(858〜887) | 901年(延喜元) | 藤原時平ら |
『古事記』『日本書紀』の神話
『古事記』や『日本書紀』に見られる神々の物語は、天地のはじまりから始まって、イザナギ、イザナミによる国生み、天石窟説話、大国主の国づくりと国譲り、天照大神の孫ニニギノミコトの高千穂峯への降下(天孫降臨)、海幸・山幸の説話、神武(ニニギノミコトの孫)のヤマトへの東征(神武東征)などの話から構成されている。こうした神話は、律令制に基づく中央集権的国家が確立する過程で編まれたものであり、高天原の主催者天照大神の直系である神武天皇を初代として系譜をつなげ、古代の天皇による国家統治の起源を説いて、それを正当化する性格をもっている。批判的に検討することによって、そうした神話の中に古い時代の要素をさぐり、神話がその素材・原形から国家的神話へと編成される過程を追求する研究もなされている。ただし、7世紀後期〜8世紀前期にまとめられた『古事記』『日本書紀』に載る神話は、古代国家が自らの起源を説明した体系としての歴史的意義をもつものであり、古代民衆が語り継いだ多元的な神々の伝承との間には隔たりがあるとみられている。
万葉集と文学
歴史書とともに、713(和銅6)年には諸国に対して郷土の産物、山川原野の名の由来、古老の伝承などの筆録が命じられ、全国的な地誌の編纂が行われた。諸国から撰上された『風土記』がそれであり、現在常陸・出雲・播磨・豊後・肥前の5カ国の『風土記』が伝えられている。
また、奈良時代の貴族や官人には漢詩文を作ることが教養として求められたが、そうした背景のうえに、751(天平勝宝3)年には現存最古の漢詩集『懐風藻』が編まれている。
7世紀の天智天皇時代以来、大友皇子をはじめ大津皇子・長屋王らの漢詩作品が収められている。漢詩文を残した文人としては、淡海三船や石上宅嗣らが知られている。石上宅嗣は自邸を寺とし、仏典以外の書物も蔵する今日の図書館のような施設をおいて芸亭と名付け、学問する人々に開放したという。
また、日本在来の文学である和歌も天皇から庶民にいたるまで多くの人々によって広く詠まれたが、『万葉集』は、759(天平宝字3)年までのそうした歌約4500首を収録した歌集である。宮廷の有名歌人のものだけでなく、東国の農民たちの心を伝える東歌や防人歌なども採録され、心情を素直に歌い上げて心に強く訴えかける歌が多くみられる。編集は大伴家持ともいうが未詳である。
天皇時代までの第1期の歌人としては有間皇子・額田王、続く平城遷都までの第2期の歌人としては柿本人麻呂、天平初年頃までの第3期の歌人としては山上憶良・山部赤人・大伴旅人、淳仁朝にいたる第4期の歌人としては大伴家持・大友坂上郎女らが名高い。
古代の教育機関としては、官吏養成のために中央に大学、地方に国学がおかれた。入学者は、大学の場合は五位以上の貴族の子弟や朝廷に文筆で仕えてきた東・西の史部の子弟、また国学の場合は郡司の子弟を優先とする限られたものであった。学生は、大学を修了し、さらに試験に合格してようやく官人として出仕することができた。
一方で、五位以上の貴族の子や三位以上の上級貴族の子や孫たちには、特権的に官人コースに入る蔭位の制が定められていた。大学の教科は、「論語」「孝経」などの経書を学ぶ明経道や、音・書・算などの諸道があり、のち9世紀には漢文・歴史学的な教科を含む紀伝道が生まれ、重視された。これらの他に、陰陽・暦・天文・医・針・あん摩・呪禁・薬などの諸学が陰陽寮や典薬寮などにおいて教授された。
国家仏教の展開
6世紀に伝来し、蘇我氏や厩戸王(聖徳太子)の時代に盛んになった仏教は、7世紀後半には国家的な支援のもとに発展し、地方でも地方豪族の信仰を得て数多くの寺院が営まれるようになった。奈良時代には、仏教は国家の保護を受けてさらに大きく発展した。特に鎮護国家の思想はこの時代の仏教の性格をよく示しており、仏教が国家と緊密に結びついてその支配を支える宗教的背景ともなっていた。
平城京には多くの寺院の伽藍が建ち並び、宮都に荘厳を加えたが、そのうち遷都前の飛鳥・藤原京時代からの国家的大寺院として、薬師寺・大安寺(もと大官大寺)・元興寺(もと法興寺(飛鳥寺))があり、平城京で建てたれた興福寺・東大寺・西大寺と、さらに京外の法隆寺を合わせた7カ寺はのちに南都七大寺と呼ばれた。
こうした寺院における仏教研究は、三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の南都六宗と呼ばれる、のちの宗派とは異なる学系を形成した。法相宗には義淵が出て、多くの門下生を育てた。華厳宗には良弁が出て、はじめ義淵に法相を学んだのち唐・新羅の僧について華厳を学び、東大寺建立に活躍した。また三論に詳しい道慈や民間に布教した行基らが、さまざまな事業に活躍した。僧侶は宗教者であるばかりでなく、当時、最新の文明を身につけた一流の知識人でもあったから、玄昉のように聖武天皇に重用されて政界で活躍した僧もあった。
日本への渡航にたびたび失敗しながらも、戒律を伝えるため、ついに渡日した唐の鑑真やその弟子たちの活動も、日本の仏教の発展に寄与した。当時、正式な僧侶となるには、まず得度して修行し、のちに授戒を受けることが必要とされたが、授戒の際に重要な戒律のあり方を鑑真に学んだのである。聖武太政天皇・光明皇太后・孝謙天皇は、東大寺に設けた戒壇において鑑真から戒を受けている。鑑真はのちに唐招提寺をつくり、そこで死去した。同寺に伝わる鑑真像(乾漆像)は、鑑真生前の姿を写したものといわれ、苦難を乗り越えて日本に仏教を伝えた高僧の慈愛と気高さをよく伝えている。のちに遠隔地の授戒者のために、中央の東大寺の戒壇に加えて、九州の筑紫観世音寺、東国の下野薬師寺にも階段が設けられて、「本町三戒壇」と称された。
鑑真
鑑真は688年、唐の長江河口近くの揚州で生まれ、長安・洛陽で仏教を学び、淮南に戻って戒律を教え広めて名を高めた。伝戒師を求める日本からの入唐僧栄叡・普照らの懇請を受けて渡日を決意したが、難破などで5回も渡海に失敗し、自らは失明してしまう。しかし、753(天平勝宝5)年に遣唐使の帰国船に乗ってついに日本に渡ることに成功した。翌年平城京に入り、東大寺に迎えられた。その年、大仏殿前に戒壇を設けて、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇ほか、多くの僧侶が鑑真から受戒した。758(天平宝字2)年に大和上の号を授けられ、大僧都の任は解かれる。のち、東大寺から唐招提寺へと移った。伝記に淡海三船が著した『唐大和上東夷伝』(779(宝亀10)年成立)がある。
一方で、仏教は律令によって国家から厳しく統制を受けており、一般に僧侶の活動は寺院内に限られていたが、中には行基のように、民衆への布教とともに用水施設や交通路沿いに救済施設をつくるなどの社会事業を行い、はじめ国家から弾圧を受けながらも多くの民衆に支持された僧もいた。のち行基は大僧正に任じられて大仏の造営に協力する。社会事業は善行を積むことにより福徳を生むという仏教思想と結びついており、光明皇后が平城京に悲田院を設けて孤児・病人を収容し、施薬院を設けて医療にあたらせたことも、そうした仏教信仰と結びつこう。
外来の仏教が日本の社会に根づく過程では、仏教が現世利益を求める手段とされたり、在来の祖先信仰と結びついた追善供養の阿弥陀信仰が行われたりして、仏と神は本来同一であるとする神仏習合思想がおこった。これは、すでに中国において在来信仰と仏教との融合による神仏習合思想がおこっていたことにも影響を受けている。
仏教によって国家の安定をはかる鎮護国家の思想はこの時代の国家仏教の特徴であり、聖武天皇による国分寺建立や大仏造立などの大事業も、その仏教信仰に基づいていた。朝廷による仏教保護により、大寺院は壮大な伽藍や広大な寺領をもったが、こうした造営事業は国家財政に大きな負担をかけるものでもあった。また、政治と仏教が深く結びつくことにもなり、奈良時代まつの称徳天皇の時代には、法王となった道鏡が政権を掌握して国政を動かし、天皇とともに仏教中心の政治を行うようになった。こうして、一方で仏教は政治化・権力化していったが、他方、山林にこもって修行する僧たちも出て、やがて平安新仏教の母体となっていった。
護国三経
金光明最勝王経はこの経を受持する国王を諸天が擁護するといい、仁王経は帝王がこの経を受持して道を行えば万民も国土も安泰になるとする。これに法華経を合わせて、鎮護国家の仏教経典として護国三経といわれる。
天平の美術
奈良時代には、国際的な唐文化の影響を大きく受けながら、朝廷、貴族の邸宅や国家仏教政策と結びついた寺院などの場において、力強く国際的な美術作品が貴族たちを中心に享受された。8世紀半ばころの聖武天皇の時代には、ようやく充実した国勢を背景に多くの作品が生まれたことから、その時代の美術は元号をとって天平美術と称されている。
建築
建築では、奈良の寺院建築に今もなお当時の姿をとどめる瓦葺きの礎石建物を多く見ることができる。もと貴族の邸宅建物であったという法隆寺伝法堂、もと平城宮内の宮殿建築であった唐招提寺講堂のほか、寺院建築では東大寺法華堂・唐招提寺金堂や法隆寺東院伽藍の中心にある法隆寺東院夢殿(八角円堂)、門の東大寺転害門や校倉造の倉庫の正倉院宝庫などが代表的なもので、いずれも堂々として均整のとれた美しさをもつ建造物である。
正倉院宝庫
主な収蔵品は、光明皇太后が東大寺に献じた聖武太上天皇の遺愛品である。(今は新宝庫に収蔵)。南・中・北の3倉に分かれ、南・北2倉は校倉造。
法隆寺伝法堂
橘古奈可智(聖武天皇の夫人)の邸宅を移築。奈良時代の貴族の住宅を知る貴重な遺構である。もとは檜皮葺きであったという。
東大寺転害門
東大寺に現存する奈良時代の建造物は7棟あるが、この門はその一つである。
唐招提寺講堂
平城宮の東朝集殿(儀式の時に臣下の参集する場所で東西2棟あった)を唐招提寺に移築・改造。平城宮の宮殿を知る唯一の遺構である。
唐招提寺金堂
奈良時代の金堂で現存するのは、この唐招提寺の金堂だけである。正面7間、側面4間、寄棟造の瓦葺で、奈良時代後期の建物である。外周は扉と連子窓で壁はない。堂々とした雄大な建築で天平建築を代表する遺構の一つである。2006年、正面扉の金具下から建立当時に描かれたと思われる花の彩色文様が見つかった。
彫刻
彫刻では、以前からの金銅製や木製の仏像のほかに、木を芯にして粘土で塗り固めた塑像や、原型の上に麻布を幾重にも漆で塗り固めた乾漆像(あとで原型を抜き取る)の仏像がよくつくられた。天皇・貴族のあつい仏教信仰を受けて、表情豊かで調和のとれた美しさをもつ仏像が数多くつくられた。
塑像としては、東大寺法華堂の日光菩薩像・月光菩薩像・執金剛神像・東大寺戒壇院の四天王像、新薬師寺の十二神将像などが知られる。
乾漆像としては、興福寺の釈迦十大弟子像や八分衆像(その1体が阿修羅像)、東大寺法華堂の不空羂索観音像、唐招提寺の鑑真像などが知られる。
絵画
絵画の作例は少ないが、正倉院に伝わる長毛立女屏風の樹下美人図や、薬師寺に伝わる吉祥天像などは、代表的なものである。唐の影響がみられる豊満で華麗な筆致で、一部日本的な感覚もみられる。過去現在絵因果経の写経の上半分にみられる釈迦の一生を描いた絵画もこの時代のものであり、のちの絵巻物の源流ともいわれる。
工芸品
工芸品としては、正倉院宝庫に伝えられた正倉院宝物が名高い。756(天平勝宝8)年の聖武太上天皇の死後に光明皇太后が太上天皇の遺愛の品々を東大寺に寄進したものなどを中心に、螺鈿紫檀五弦の琵琶・漆胡瓶・白瑠璃碗など、今日まで極めてよく保存された多数の優品をみることができる。服飾・調度品・楽器・武具など多様な品々が含まれ、また唐ばかりでなく、遠くシルクロードを経た西アジアや南アジアの影響を受けた品々がみられ、当時の宮廷生活の文化水準の高さと国際性をうかがうことができる。正倉院の校倉は、開扉に天皇の許可が必要な勅封とされ、良好な保存状態で長く守られてきたのであった。また、称徳天皇が764年の恵美押勝の乱後に発願してつくらせた100万基にのぼる木造小塔の百万塔と、その中に納置された百万塔陀羅尼も、この時代の優れた工芸技術を示している。百万塔陀羅尼は、銅版か木版か説が分かれているが、年代の確実な現存印刷物として世界最古級といわれている。