14世紀の東アジア
中国:朱元璋が明を建国。元をモンゴル高原に追いやり(北元)中国統一。
日本:鎌倉幕府が倒され南北朝の争乱期となり、京都に室町幕府が成立。西日本の海賊集団は倭寇となる。
朝鮮半島:李成桂が李氏朝鮮を建国。
アジア諸地域の繁栄
東アジアでは14世紀後半、元王朝末の混乱の中から明王朝が成立した。明は、君主独裁による中央集権体制の確立に努める一方、東アジア諸国に対しては朝貢体制を復活させて国家による管理貿易を行い、朝貢を勧誘するため数回にわたり大艦隊を南海諸国へ派遣した。16世紀に入ると明は、モンゴルや倭寇対策に悩まされ、国内の混乱もあってしだいに国力が衰え、17世紀前半に滅亡した。
かわって中国を支配したのが満州族の清王朝である。清は明の諸制度をうけつぎ、さらに強力な先制国家を形成し、中央アジアやモンゴル、チベットなどを支配し、東アジアの大半を領有する大帝国となった。特に康熙帝、雍正帝、乾隆帝の3皇帝の約130年間が清の最盛期であった。明・清時代には、長江の中・下流域を中心として産業や商業の発達が見られ、銀の流通もあって、税制や庶民文化にも大きな影響を与えた。また明末以降中国に来航したキリスト教宣教師による東西の文化交流も見られた。
西アジアでは14世紀後半、チャガタイ・ハン国の混乱に乗じたティムールが、中央アジアのサマルカンドを首都としてティムール朝を開いた。ティムールは西のイルハン国や北インド、小アジアに侵入して大帝国を築いた。西アジアを支配したことにより、イラン的要素の強いトルコ・イスラーム文化が形成され、中央アジアに伝えられた。
13世紀末の小アジアに建国されたイスラーム国家であるオスマン帝国は、15世紀中頃にビザンツ帝国を滅ぼし、16世紀に入るとシリア、イラン、北アフリカなどに進出し、3大陸にまたがる大帝国となり、スレイマン1世のとき最盛期を迎えた。
ティムール朝滅亡後のイランではサファヴィー朝が建国され、国内統一のためシーア派を国教とし、古代以来イランの王を意味するシャーの称号を用い、民族意識の高揚に務めた。
インドでは16世紀初め、ティムールの子孫バーブルがイスラーム教国であるムガル帝国をたて、第3代アクバルはイスラーム教とインド固有の宗教であるヒンドゥー教徒の融和を図り、彼の治世に最盛期を迎えた。イスラーム文化とヒンドゥー文化との融合がさらに進み、特色あるインド・イスラーム文化が成熟した。しかし17世紀後半には、イスラーム・ヒンドゥーの両教徒の間に対立が深まり、ヨーロッパ勢力の侵入もあって、ムガル帝国は衰退に向かった。
東アジア | インド・西アジア | |
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1351 | 紅巾の乱(〜66) | |
1368 | 明建国(首都: 金陵) 洪武帝即位 | |
1370 | ティムール朝成立 | |
1399 | 靖難の役(〜1402) | |
1402 | アンカラの戦い | |
1448 | 鄧茂七の乱 | |
1449 | 土木の変 | |
1453 | オスマン帝国、ビザンツ帝国を滅ぼす | |
1501 | サファヴィー朝成立 | |
1507 | ティムール朝滅亡 | |
1526 | ムガル帝国成立 | |
1529 | オスマン帝国、第1次ウィーン包囲 | |
1538 | プレヴェザの海戦 | |
1592 | 豊臣秀吉、朝鮮侵略(〜1598) | |
1616 | ヌルハチ、後金建国 | |
1631 | 李自成の乱(〜1645) | |
1636 | 後金、清と改称 | |
1644 | 明滅亡、清が北京占領 | |
1673 | 三藩の乱(〜1681) | |
1683 | オスマン帝国、第2次ウィーン包囲失敗 | |
1689 | ネルチンスク条約(対ロシア) | |
1699 | カルロヴィッツ条約 | |
1703 | チューリップ時代(〜1730) | |
1706 | イエズス会以外の宣教師追放 | |
1727 | キャフタ条約(対ロシア) |
東アジア・東南アジア世界の動向
14世紀の東アジア
ヨーロッパにおける気候の寒冷化や飢饉、さらには黒死病(ペスト)の流行などに見られるように、14世紀に入ると世界各地では自然災害や疫病などが多発した。
中国
中国でもこのころ政権内部の内紛が続き、さらには自然災害や飢饉が多発して、元朝の支配にかげりが見え始めた。当時元朝では、貴族の贅沢な宮廷生活やチベット仏教への熱狂的信仰のために莫大な経費を必要とし、国家財政が窮乏した。その対策として元朝は交鈔を濫発したので、物価の騰貴を招き、民衆の生活が次第に苦しめられていった。これに加え元朝は専売制度の強化を行い、それが黄河の氾濫をはじめとする自然災害や飢饉と相まって民衆の生活を苦しめた結果、生活に困窮した農民は各地で暴動をおこした。この農民反乱はやがて全国に波及していき、中でも宋代から始まる弥勒仏下生を中心とする仏教系結社である白蓮教を主体とした紅巾の乱(白蓮教徒の乱)がもっとも大規模なものであった。
紅巾の乱の一武将で、安徽省濠州の貧農出身であり、かつて僧侶でもあった朱元璋は、次第に頭角を現していき、儒学の素養を持つ知識人の協力を得ながら江南地方の穀倉地帯を手に入れ、その経済力をもって周辺地域の群雄を勢力下に吸収していった。彼は1368年、金陵(のちの南京)を都として皇帝位につき、元号を洪武と定めて明(1368〜1644)を建国した(洪武帝 太祖)。洪武帝はその年、大都(現北京)に残る元朝を攻めるべく軍を派遣し、ついに元の勢力をモンゴル高原に追いやった(北元・韃靼)。さらに1381年には、雲南地方に残るモンゴル勢力を一掃した。ここに明朝は全国統一を完了したのであり、江南を根拠地として中国統一した、ただ一つの王朝である。
日本
蒙古襲来後の日本では鎌倉幕府が1333年に倒され、南北朝の争乱期となり、京都に室町幕府が成立した。しかし国内は南北朝の騒乱で統制がとれず、西日本の海賊集団は朝鮮半島南岸や中国江南の沿岸を略奪する倭寇となり、活動も次第に活発になった(前期倭寇)。
朝鮮
こうした朝鮮半島南岸における倭寇の活動に対して、高麗はその対策に苦しんでいた。明が元を中国から追い払うと、元の服属国であった高麗では、モンゴル高原に逃れた北元と結んで明を攻撃する計画が持ち上がった。倭寇の撃退などで名声を高めていた武将の李成桂は軍を率いて鴨緑江まで進んだが、高麗軍に戦意はなく明軍と敵対することに迷い、ついに彼は反転して首都の開城に入り、国王を廃して王子をたて、政権を握ることに成功した(1388)。彼は都を漢城(漢陽 現ソウル)に遷し、それまでの親元派から親明派政策に切り替え、また科田法を採用して田制の改革を実行した。こうして李成桂は1392年、部下に推されて王位についた(太祖)。国号を朝鮮と改めたことから李氏朝鮮(李朝)ともいう。
このように東アジア各地では14世紀末までに新しい政治秩序が形成され、一応の安定を見たのである。
科田法
高麗時代の王公、貴族の土地を没収し、これを官階に応じて官僚や兵士に科田を支給した制度。世襲が認められた。