神聖ローマ帝国 A.D.962〜A.D.1806
現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。1512年以降の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」。首都:プラハ(1346年〜1437年, 1583年〜1611年), ウィーン(1483年~1806年), レーゲンスブルク(国会の設置場所として、1663年~1806年)
- 962年: 成立 オットー1世(神聖ローマ皇帝)
- 1356年: 金印勅書 カール4世(神聖ローマ皇帝)
- 1648年: ヴェストファーレン条約 フェルディナント3世(神聖ローマ皇帝)
- 1806年: 滅亡 フランツ2世(神聖ローマ皇帝)
神聖ローマ帝国
西ヨーロッパ世界の成立
オットー1世(神聖ローマ皇帝)の戴冠以降、19世紀初頭までのドイツ国家の名称を指す。だが、オットー1世自身は「尊厳なる皇帝」とのみ称し、その後12世紀半ばに「神聖帝国」の名称が、また13世紀後半になって「神聖ローマ帝国」の名称が正式に登場した。そして、15世紀半ば以降は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という呼称が一般化した。つまり、神聖ローマ帝国とは、聖なるローマ教会の世界に対応した、皇帝の超国家的支配の理念的表現であった。
現実的にはドイツで王となったものがローマ教皇の戴冠を受け、皇帝としてドイツ及びイタリアに君臨する仕組みをさした。そのため、ドイツ国王は常にイタリア政策を余儀なくされ、ドイツ国内の統治に専念することができなかった。だが、イタリア政策の結果もブルグンド、北イタリアないしはシチリアを一時的に支配するにとどまり、むしろドイツ国内の分権的傾向(領邦国家化)を一層推し進めることになった。
西ヨーロッパ中世世界の変容
ドイツの分裂
ドイツでは、ホーエンシュタウフェン家とヴェルフェン家との間に宿命的な対立があったが、12世紀末と13世紀半ばにフランスとイギリスが介入し、異例の国王二重選挙となった。その結果、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)が即位するまでの間、ドイツは実質的に皇帝不在となった(大空位時代
ホーエンシュタウフェン派の推す国王(カスティリャ王)とヴェルフェン派の推す国王(イギリス王の弟)が並び立ったが、二人ともドイツにはほとんど顔を見せなかった。)。
大空位時代 – 世界の歴史まっぷ
ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝)は、自家の領地広大を第一義とする典型的なドイツ貴族であり、神聖ローマ帝国は完全に形骸化していった。
13世紀を通じて、国王選挙の制度と選帝侯の地位、権限などが固定していった。1356年、ルクセンブルク朝のカール4世(神聖ローマ皇帝)は金印勅書(黄金文書)を発布し、7人の選帝侯と国王選挙の手続きを確認した。また付帯条項の中で、選帝侯は至高権・完全な裁判権・貨幣鋳造権・関税徴収権などの特権を認められ、事実上近代国家に等しい支配権を獲得することになった。その後、他の諸侯もこれにならおうと務め、西ヨーロッパ諸国が中央集権化しつつある中で、ドイツは逆に各両方国家の独立傾向が強まった。15世紀前半のアルプレヒト2世以降、オーストリアのハプスブルク家が皇帝位を独占する(1438〜1806)ようになるが、それはもはや神聖ローマ帝国でもドイツ帝国でもなく、ハプスブルク家の帝国というにふさわしいものであった。
金印勅書
1356年1月ニュルンベルク、12月メッツの2度の帝国議会でカール4世が発布した帝国法。その名は勅書に黄金の印章を用いたことに由来する。これによると、選帝侯はマインツ・トリール・ケルンの三大司教と、ベーメン王・ブランデンブルク伯・ザクセン侯・ライン宮廷(ファルツ)の四大諸侯に限定され、会議はフランクフルトで開催、評決は多数決とし、教皇の認証を必要としないというものであった。
この間、ドイツ人はエルベ・ザール川やベーメンの森を超えて植民活動を進め(東方植民運動)、現地のスラヴ人やマジャル人を同化・吸収しつつ、いくつかの諸公国と多数の村落・都市を形成していった。その結果、オーストリア・ブランデンブルク・プロイセン(ドイツ騎士団領)といった、近代のドイツの政治を動かすことになる大領邦が成立し、ドイツ国内の重心は東方に移動した。また、今日のスイス地方の農民と市民は、13世紀以降のハプスブルク家の支配に抵抗し、1291年ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデンの3邦が永久同盟を締結、自由と自治を守るために相互援助を誓った。
同盟にはその後、他の邦も次々に加盟し、圧迫するオーストリア(ハプスブルク家)軍を度々破った。1499年、オーストリアは失地回復をはかってシュワーベン戦争を引き起こしたが、スイス諸邦軍はこれを撃破し、事実上の独立を勝ち取った。
概要
日本では通俗的に、962年ドイツ王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世により、カロリング朝的ローマ帝国の継承者として皇帝に戴冠したときから始まるとされ、高等学校における世界史教育もこの見方を継承しているが、ドイツの歴史学界ではこの帝国をカール大帝から始めるのが一般的で、その名称の変化とともに以下の3つの時期に分ける。これは帝国の体制構造の大規模な変化にも対応している。
- カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶に至る「ローマ帝国」期(800年-911年)
- オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶に至る「帝国」期(962年-1254年)
- 中世後期から1806年にいたる「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」期
領域
神聖ローマ帝国の領域は今日のドイツ(南シュレスヴィヒを除く)、オーストリア(ブルゲンラント州を除く)、チェコ共和国、スイスとリヒテンシュタイン、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクそしてスロベニア(プレクムリェ地方を除く)に加えて、フランス東部(主にアルトワ、アルザス、フランシュ=コンテ、サヴォワとロレーヌ)、北イタリア(主にロンバルディア州、ピエモンテ州、エミリア=ロマーニャ州、トスカーナ、南チロル)そしてポーランド西部(主にシレジア、ポメラニア、およびノイマルク)に及んでいた。
帝国は当初、ドイツ王兼イタリア王が皇帝に戴冠されて成立した。従ってその領域はドイツから北イタリアにまたがっていた。また9世紀末から10世紀にドイツ王に臣従していたボヘミア(現在のチェコ共和国)は1158年(または1159年)に大公から王国へ昇格し、帝国が消滅するまでその一部であり続ける。
1032年にブルグント王国の王家が断絶すると、1006年にブルグント王ルドルフ3世とドイツ王(のち皇帝)ハインリヒ2世の間で結ばれていた取り決めにより、ハインリヒ2世の後継者コンラート2世がドイツ王・イタリア王に加えてブルグント王も兼ねることとなった。ブルグント王国は現在のフランス南東部にあった王国であり、これにより神聖ローマ帝国の領域は南東フランスにまで拡大した。
13世紀半ば、皇帝不在の大空位時代を迎えて皇帝権が揺らぐとイタリアは次第に帝国から分離した。ブルグントにはシャルル・ダンジューを初めとするフランス勢力が入り込んだ。イタリアの諸都市は実質的に独立を得ていき、のちにはやはりフランスが勢力を伸ばそうとした。皇帝位を世襲するようになったハプスブルク家は北イタリアからフランスの勢力を撃退し、この地域の支配を確立するのであるが、それは北イタリアが再び帝国の一部となったことを意味するのではない。北イタリアが帝国の制度に編入されることはなかった。
また、1648年のヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)の結果、エルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)のいくつかの都市がフランスに割譲され、スイスとオランダが独立した。この三地域は帝国から分離したのであり、北イタリアと同様、もはや帝国の制度外の地域となった。その後もフランスのエルザス=ロートリンゲンへの進出は続き、神聖ローマ帝国が消滅する1806年までにこの地域の全てが帝国から脱落することとなった。
歴史
中世
西方帝国(カロリング帝国)
800年、フランク王国カロリング朝のフランク王カール1世が教皇レオ3世(在位:795年-816年)によって西ローマ皇帝として戴冠された。5世紀末に西ローマ皇帝が絶えた後の西欧はローマ帝国の一部として東ローマ帝国に従属していたが、ここに西ローマ皇帝が復活したのである。無論、実態としてはフランク王国が西ローマ帝国を名乗ったに過ぎない。この帝国は公的には西方帝国、西の帝国と呼ばれているが、歴史学ではフランク帝国ないしはカロリング帝国と呼ばれている。西方帝国(カロリング帝国)はフランク王国の最終段階、あるいは中近世に渡って1000年続く神聖ローマ帝国の初期段階である。
カールの戴冠は建国では無い。フランク王国はカロリング朝の前のメロヴィング朝が建国しているし、カロリング朝にしてもカール大帝の代までには既にフランク王国の支配者となっている。後に西方帝国となる国家の基本を作り上げたのは大帝の祖父であるカール・マルテルであるし、カロリング朝最初の王は父のピピンである。カールの戴冠の意義は西欧が東ローマ帝国の皇帝に理念的にも従属しなくなったということであり、またローマ、ゲルマン、キリスト教の三要素からなる神聖ローマ帝国という概念が誕生した瞬間だということである。しかし843年、ゲルマン人の風習である分割相続が元で西方帝国は分裂した。分裂した西方帝国は一度統合されるものの、888年にカール3世肥満帝が死去すると再び分割され再建されることは無かった。西方帝国の分裂はフランス、ドイツという国家の始まりでもある。なお、西方帝国分裂後も名ばかりの帝位をイタリア王が得ていたが、924年に途絶えた。
皇帝・ローマ王・ドイツ王
神聖ローマ皇帝は神聖ローマ帝国の君主たる皇帝を指す歴史学の用語で、実際の称号は時代によって変化しており、統一された称号はない。
神聖ローマ皇帝の皇帝権は、800年のカール大帝の戴冠により西ヨーロッパにおける覇権的君主権として成立し、またキリスト教と密接に結びついた。962年のオットー大帝の戴冠以降は、皇帝権はドイツ王権と不可分なものとなり、中世を通じてヨーロッパの世俗支配権の頂点に君臨した。特にオットー大帝以後13世紀のシュタウフェン朝断絶にいたるまでの、いわゆる「三王朝時代」は皇帝権は教皇権とともに西ヨーロッパのキリスト教世界の権威と権力を二分していた。
歴代国王一覧
神聖ローマ帝国皇帝
名前 | 在位 | |
---|---|---|
フランケン朝(コンラディン朝) | ||
コンラート1世(ドイツ王) | 911年 - 918年 | |
ザクセン朝(リウドルフィング朝/オットー朝) | ||
ハインリヒ1世(ドイツ王) | 919年 - 936年 | |
オットー1世(神聖ローマ皇帝) | 936年 - 973年 | ハインリヒ1世の子 |
オットー2世(神聖ローマ皇帝) | 973年 - 983年 | オットー1世の子 |
オットー3世(神聖ローマ皇帝) | 983年 - 1002年 | オットー2世の子 |
ハインリヒ2世(神聖ローマ皇帝) | 1002年 - 1024年 | オット-3世の又従兄弟、ハインリヒ1世の曾孫 |
ザーリアー朝 | ||
コンラート2世(神聖ローマ皇帝) | 1024年 - 1039年 | オットー1世(大帝)の娘ロイガルトの曾孫 |
ハインリヒ3世(神聖ローマ皇帝) | 1039年 - 1056年 | コンラート2世の長子 |
ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝) | 1056年 - 1106年 | ハインリヒ3世の長子 |
ルドルフ・フォン・ラインフェルデン | 1077年 - 1080年 | ハインリヒ4世の対立王 |
ヘルマン・フォン・ザルム | 1081年 - 1088年 | ハインリヒ4世の対立王 |
コンラート(イタリア王) | 1087年 - 1098年廃位 | ハインリヒ4世の次子、ハインリヒ4世の共治王 |
ハインリヒ5世(神聖ローマ皇帝) | 1106年 - 1125年 | ハインリヒ4世の末子 |
ザクセン朝(ズップリンブルク朝) | ||
ロタール3世(神聖ローマ皇帝) | 1125年 - 1137年 | |
ホーエンシュタウフェン朝 | ||
コンラート3世(神聖ローマ皇帝) | 1138年 - 1152年 | |
フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝) | 1152年 - 1190年 | コンラート3世の子 |
ハインリヒ6世(神聖ローマ皇帝) | 1190年 - 1197年 | フリードリヒ1世の子 |
フィリップ(神聖ローマ皇帝) | 1198年 - 1208年 | フリードリヒ1世の子、シュヴァーベン公 |
ヴェルフェン朝 | ||
オットー4世(神聖ローマ皇帝) | 1198年 - 1215年 | ロタール3世の曾孫、フィリップの女婿 |
ホーエンシュタウフェン朝 | ||
フリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝) | 1196年 - 1198年 1215年 - 1250年 | ハインリヒ6世の子 |
ハインリヒ7世(ドイツ王) | 1220年 - 1235年廃位 | フリードリヒ2世の子、フリードリヒ2世の共治王 |
ハインリヒ・ラスペ | 1246年 - 1247年 | フリードリヒ2世の対立王 |
コンラート4世(神聖ローマ皇帝) | 1250年 - 1254年 | フリードリヒ2世の子 |
大空位時代 | ||
ウィレム2世(ホラント伯) | 1234年 - 1256年 | |
リチャード(コーンウォール伯) | 1257年 - 1272年 | イングランド王ジョン(欠地王)の子、コーンウォール伯 |
アルフォンソ10世(カスティーリャ王) | 1257年 - 1275年 | カスティーリャ王 |
跳躍選挙 | ||
ルドルフ1世(神聖ローマ皇帝) | 1273年 - 1291年 | ハプスブルク伯 |
アドルフ(神聖ローマ皇帝) | 1292年 - 1298年 | |
アルブレヒト1世(神聖ローマ皇帝) | 1298年 - 1308年 | ルドルフ1世の子 |
ハインリヒ7世(神聖ローマ皇帝) | 1308年 - 1313年 | 枢機卿による戴冠 |
ルートヴィヒ4世(神聖ローマ皇帝) | 1314年 - 1347年 | |
フリードリヒ3世(ドイツ王) | 対立王位: 1314年 - 1325年 共治王位: 1325年 - 1330年 | アルブレヒト1世の子 |
ルクセンブルク朝 | ||
カール4世(神聖ローマ皇帝) | 1346年 - 1378年 | ハインリヒ7世の孫 |
ギュンター・フォン・シュヴァルツブルク | 1347年 - 1349年 | カール4世の対立王 |
ヴェンツェル(神聖ローマ皇帝) | 1376年 - 1400年 | カール4世の子 |
ループレヒト(神聖ローマ皇帝) | 1400年 - 1410年 | |
ヨープスト・フォン・メーレン | 1410年 - 1411年 | ジギスムントの共治王 |
ジギスムント(神聖ローマ皇帝) | 1410年 - 1437年 | カール4世の子 |
ハプスブルク朝 | ||
アルブレヒト2世(神聖ローマ皇帝) | 1438年 - 1439年 | |
フリードリヒ3世(神聖ローマ皇帝) | 1440年 - 1493年 | ローマで戴冠した最後の皇帝 |
マクシミリアン1世(神聖ローマ皇帝) | 1493年 - 1519年 | フリードリヒ3世の子、ローマへ行かずに皇帝になった最初の例 |
カール5世(神聖ローマ皇帝) | 1519年 - 1556年退位 | マクシミリアン1世の孫、教皇による戴冠を受けた最後の皇帝 |
フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝) | 1556年 - 1564年 | マクシミリアン1世の孫 |
マクシミリアン2世(神聖ローマ皇帝) | 1564年 - 1576年 | フェルディナント1世の子 |
ルドルフ2世(神聖ローマ皇帝) | 1576年 - 1612年 | マクシミリアン2世の子 |
マティアス(神聖ローマ皇帝) | 1612年 - 1619年 | マクシミリアン2世の子 |
フェルディナント2世(神聖ローマ皇帝) | 1619年 - 1637年 | フェルディナント1世の孫 |
フェルディナント3世(神聖ローマ皇帝) | 1637年 - 1657年 | フェルディナント2世の子 |
フェルディナント4世(ローマ王) | 1653年 - 1654年 | フェルディナント3世の子、フェルディナント3世の共治王 |
レオポルト1世(神聖ローマ皇帝) | 1658年 - 1705年 | フェルディナント3世の子 |
ヨーゼフ1世 | 1705年 - 1711年 | レオポルト1世の子 |
カール6世(神聖ローマ皇帝) | 1711年 - 1740年 | レオポルト1世の子 |
ヴィッテルスバッハ朝(バイエルン朝) | ||
カール7世(神聖ローマ皇帝) | 1742年 - 1745年 | フェルディナント2世の玄孫 |
ハプスブルク=ロートリンゲン朝 | ||
フランツ1世(神聖ローマ皇帝) | 1745年 - 1765年 | フェルディナント3世の曾孫、皇后:マリア・テレジア(オーストリア女大公位:1740年 - 1780年) |
ヨーゼフ2世 | 1765年 - 1790年 | フランツ1世の子 |
レオポルト2世(神聖ローマ皇帝) | 1790年 - 1792年 | フランツ1世の子 |
フランツ2世(神聖ローマ皇帝) | 1792年 - 1806年退位 | レオポルト2世の子、オーストリア皇帝フランツ1世(在位:1804年 - 1835年) |