レオン王国
レオン王国紋章 Source Wikipedia

レオン王国


レオン王国 A.D.910〜A.D.1252
イベリア半島に存在した王国。首都: レオン。イスラーム勢力により滅亡した西ゴート王国の貴族ペラーヨがアストゥリアスに逃れて建国したアストゥリアス王国が版図を拡大し、レオンへ遷都して以降レオン王国と称される。

  • 910年: アルフォンソ3世(アストゥリアス王)が息子3人に国土を分割相続させた
  • 1230年 フェルナンド3世(カスティーリャ王)がレオン王に即位したことで同君連合となる

レオン王国

レオン王国
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

歴代国王と概要

アストゥリアス国王オルドーニョ1世の統治下で王国はレオンとして知られ始められるようになり、910年にアルフォンソ3世(アストゥリアス王)の死後、3人の息子間で分割され、ガルシア1世(レオン王)はレオン王国を 、オルドーニョ2世はガリシア王国を、フルエーラ2世はアストゥリアス王国をそれぞれ相続したことでレオン王国の独立の土台が築かれた。
スペインとポルトガル 8〜13世紀レコンキスタ地図 ポルトガル王国
8〜13世紀レコンキスタ地図 ©世界の歴史まっぷ

歴代国王

ペレス家 910年〜1037年

  1. ガルシア1世(レオン王)
    レオンへ遷都。レオン・ガリシア・ストゥリアスはそれぞれ別の王を戴きつつガルシア1世がそれらをまとめて緩やかな連合を形成していた。
  2. オルドーニョ2世 レオン王兼ガリシア国王
  3. フルエーラ2世 レオン王兼ガリシア国王兼アストゥリアス王
  4. アルフォンソ4世(レオン王) 退位
  5. ラミロ2世(レオン王)
  6. オルドーニョ3世
  7. サンチョ1世(レオン王)
  8. オルドーニョ4世
  9. サンチョ1世(レオン王)
  10. ラミロ3世(レオン王)
  11. ベルムード2世
  12. アルフォンソ5世(レオン王)
  13. ベルムード3世
レオン王国
カスティーリャ王国とレオン王国の国王 Source Wikipedia

ヒメノ家 1037年〜1126年

  1. フェルナンド1世(カスティーリャ王)レオン王兼カスティーリャ王
    フェルナンド1世がレオン王国の継承権を持つとレオン王国はカスティーリャ王国に併合されカスティーリャ=レオン王国となる。
    フェルナンド1世死後、遺領は3分割され、カスティーリャ王国を長男サンチョ2世が、レオンを次男アルフォンソ6世が、ガリシアを三男ガルシア2世が相続した。サンチョはアルフォンソとガリシアを攻めたが、アルフォンソを裏切ってレオンを征服した。しかし、サンチョは1072年に暗殺され、ガルシアはその翌年捕らえられたため、アルフォンソ6世はカスティーリャとガリシアの王位を継ぎ、カスティーリャ=レオン王国を再び統合した。
  2. アルフォンソ6世(カスティーリャ王) 兄弟により退位のち復位
    11世紀にはサンティアゴ・デ・コンポステーラが巡礼地として知られるようになり、フランス人の巡礼者を引き付けるようになった。イベリア半島の住民はほとんど参詣せず、巡礼に参加するのは一部の上層階級の人であった。巡礼の道は「フランス人の道」と呼ばれていた。聖ヤコブはスペイン人にとってそれほど重要な聖人でなく、レオン王国は聖イシドロ、カスティーリャでは聖ミリャン、アラゴンでは聖ゲオルギウスが守護聖人とされており、民衆の一番大切な信仰対象は聖母マリアであった。
    フランス人はクリュニー修道院の改革精神をスペインにもたらした。クリュニーは王権から寄進を受けてスペイン各地に修道院を獲得し、さらに新たな征服地の司牧を任せられるようになった。アルフォンソ6世が1085年にトレドを攻略すると、トレド大司教をクリュニー派のベルナールに任せた。
    アルフォンソ自身は「二宗教の皇帝」と自称したように、イスラームとの共存を考えており、クリュニーや改革派教皇が称揚する十字軍的な聖戦概念とは、ずれがあった。改革派教皇はその首位権をイベリア半島に及ぼそうとし、「コンスタンティヌスの寄進状」を持ち出して西ローマ帝国の故地は教皇に捧げられていると主張した。これはカスティーリャ王国の「新ゴート主義」とは基本的に相容れないものであった。グレゴリウス7世(ローマ教皇)がイベリア半島に首位権を主張した時、アルフォンソは「イスパニア皇帝」あるいは「トレド皇帝」を自称して牽制した。アルフォンソはクリュニーに多大な寄進をすることで教皇権に対する防壁としてクリュニーを利用しようとした。アルフォンソは他方、教皇やクリュニーの要求していた、モサラベ式典礼からローマ式典礼への移行には応え、イスパニアの教会改革を実施した。これによってイスパニア教会が独自の典礼を捨てローマへ一致する道は確定され、イスパニア教会史に一つの画期が訪れた。
    1090年のレオン教会会議で西ゴート書体の使用が禁止され、カロリング書体が義務づけられたにもかかわらず、アルフォンソは西ゴート書体を使い続けた。

    サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 : カミーノ・フランセスとスペイン北部の巡礼路群 – 世界の歴史まっぷ

  3. サンチョ2世(カスティーリャ王) レオン王兼カスティーリャ王
  4. アルフォンソ6世(カスティーリャ王) 復位 レオン王兼カスティーリャ王
  5. ウラカ(カスティーリャ女王) レオン王女兼カスティーリャ王女

ブルゴーニュ家 1135年〜1252年

この一族は男系ではウラカの夫ガリシア伯ライムンド・デ・ボルゴーニャの子孫にあたる

    1. アルフォンソ7世(カスティーリャ王) レオン王兼ガリシア国王兼カスティーリャ王
    2. フェルナンド2世(レオン王)
    3. アルフォンソ9世(レオン王)
    4. フェルナンド3世(カスティーリャ王) レオン王兼カスティーリャ王 列聖
      1230年、レオンとカスティーリャは再び同君連合となったが、これ以降両国が分かれることはなかったため、単にカスティーリャ王国と呼ばれる。

カスティーリャ王国 – 世界の歴史まっぷ

参考 Wikipedia

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