レヒフェルトの戦い
955年、オットー1世(東フランク王)指揮下の東フランク軍が、侵入してきたアジア系マジャル人(ハンガリー人)を撃退した戦い。オットー1世はこの戦いで勝利し、半世紀ほど続いたマジャル人の西ヨーロッパ侵入は終わりを告げた。
レヒフェルトの戦い
戦争データ
年月日:955年8月10日 | |
場所:ドイツ アウクスブルク近くのレヒフェルト平原 | |
結果:東フランク王国の勝利 | |
交戦勢力 | |
東フランク王国 ボヘミア |
ハンガリー大公国 トランシルヴァニア |
指導者 | |
オットー1世 | タクショニュ |
戦力 | |
重騎兵8000 | 軽騎兵17000 |
損害 | |
約3,000人 | 戦死4,000〜5,000人 |
参考 Wikipedia
ヨーロッパ世界の形成と発展
西ヨーロッパ世界の成立
東フランク
ハインリヒの死後、その子オットー1世が即位した。彼は、太公勢力を抑えるために、ドイツの司教に王領地を寄進して伯職と同等の権利を与え、教会を国家の組織に組み込む政策(帝国教会政策)をとった。しかし、ザクセン朝が2代にわたったことや、混乱するイタリア支配をめぐる駆け引きが続く中で、オットーがいち早くイタリア遠征(951年)を行い王位を獲得したことは、諸太公の反乱を招いた(953〜954)。この危機を救ったのが、東方からのマジャル人の襲来であった。異民族の襲来を前に太公軍は結束し、オットーの指揮下にレヒフェルトの戦い(955)で決定的な勝利を収めたのである。これにより、半世紀ほど続いたマジャル人の西ヨーロッパ侵入は終わりを告げた。さらにオットーは蜂起したスラヴ人も撃破したため、国内における彼の地位は不動のものとなった。